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自由がある国日本で、さらなる自由を求める愚か者


日本には自由が充分にある。
なのに若者は自由を求める。
これ以上、何を求めるというのだ。

職業選択の自由、思想の自由、住居移転の自由。
これだけでも充分に自由はある。

江戸時代には藩は一つの国のような扱いだったために容易に隣の藩に行くことすらできない。
当たり前だけど住居を隣の藩に移すなんてあり得ない。
三河に生まれれば一生を三河で終える。
住居を転々とできた人なんて、ほとんどいない。

一昔前まで日本にはこの3つの自由すら与えられていなかった。
明治維新の後には神道を国家の宗教としたことによって廃仏毀釈がおこり、仏教信者たちはある意味で迫害をされた。

戦後になるまで職業だって簡単には選ぶことはできなかった。 
一応、明治維新以後は職業選択の自由はあったもののやはり農民の子は農民だ。
家業がある人は継ぐのが当たり前。

大学に行ける人すら少数派。
中学や高校ですら今のように行って当たり前の時代ではなかった。
ましてや起業するだなんてかなりマイノリティだ。

というわけで日本にはすでに自由がある程度補償されていると言える。

僕が思うに、今求められている自由は2種類に分けられる。
一つは経済的な自由。
もう一つは時間的な自由。

だから答えがFIREといった偏った考えが注目を浴びることになる。
FIREは確かに魅力的だ。
資産を若いうちに築いてアラフォーくらいでアーリーリタイアする。
残りの人生は働くことなくのんびりと田舎暮らし。
確かに時間的にも経済的にも自由と言える。
だが、本当に資産を取り崩しながら働くことなく生きていて幸せだろうか?

僕は答えはノーだと思う。
人間は人と人との間に生きるから人間。

仕事は確かに辛い。
やりたくないこともあれば
顔も見たくない上司もいる。
成果を上げても給料はたいして上がらないし
今は給料は上がらないどころか上がるのは物価だ。
そこから脱する方法が果たしてFIREなのだろうか?

やりたくもない仕事、顔も見たくない上司がいるのであれば、やりたい仕事と好きな上司に切り替えればいいだけの話だ。

が、それもそう簡単にはいかない。
どこにいっても合わない人間はいる。
話が少し逸れるが僕はコンビニやスーパーで待たされるのが大嫌いだ。
4,5年ほど前に世の中に広まったキャッシュレス決済。
スマホさえあれば口座やクレカと連携して一瞬で決済ができる。
これを活用できていない人はちょっとやばいと思う。
が、いまだにコンビニでは現金で支払う人が半数以上いる。
僕からしたらある意味迷惑行為だ。 
高齢者でスマホを持っていない人でない限りはこれは僕にとっては合わない人間と言える。

やりたくない仕事をしている人間なんて就業人口の半分以上を占める。
僕の友人で今の仕事が大好きだ、面白くて仕方ないなんて言うやつは一人もいない。
好き=楽ではない。
楽な仕事をしている奴はいる。
だが、好きなわけではない。

だからみんなもっと自由になりたい。
と口を揃えて言う。
経済的な自由。
時間的な自由。
そんなものを達成できるのは本当にごくごく僅かな人だ。
SNSではそんな人はめちゃくちゃ多そうに見えるがそれは自分がそういう情報を欲しいと思っているからに他ならない。
ついでに言うと自由に生活してそうに見えて実は借金だらけの作り物みたいな人だって一定数はいる。 
騙されてはいけない。

自由は一筋縄で手に入るものじゃない。
フリーランスは自由ではない。
会社員は原則として土日は休みだから出社しなくても良いし、会社携帯が鳴ろうと出なくても良い。
メールの返信なんてする必要もない。
が、フリーランスはそうはいかない。

クライアントから連絡が来たらすぐに連絡だ。
SNSを活用して集客しているのであれば毎日のように何か発信をしないといけない。
問い合わせがくれば対応するのも当たり前だ。
デザインを納品して、修正依頼があれば信用のためにも即日対応だ。
どこが自由なんだ?
よく考えてみて欲しい。

日本は現段階で世界の中でもかなり自由度は高い。
イスラム圏の国々をみて欲しい。
毎日何回もムスクに集まって仕事を中断して、聖地メッカに向かって礼拝をする。
年に一度はラマダンという断食の月もある。
アフリカの国々は今日も貧困に喘いでまともな食事すら摂れない子供達がいる。
水を汲みに行くのに幼い子供たちが何キロも歩く。
南米の国々は当たり前に生きているだけなのに無差別に襲われたり人生を狂わされたりするような都市すらある。

それに比べて日本はどうだ?
蛇口を撚れば水は出るし、毎日温かい風呂に入れる。好きなものを食べれるし、襲われるほどの危険な場所なんてそうそうない。

充分自由じゃないか?

どんな自由を求めているんだろうか?

自由という言葉は使いやすい。
ただ、自由になりたいのであればそれを具体化するべきだ。

経済的な自由を求めているのか?
ただ経済的に豊かであると言うことと自由であることは違う。
経済的に豊かな人は比例して責任感も増すこともある。
起業して事業を始めて拡大してくれば関わる人間も増えるし
雇う人間なんていれば大変だ。
自分一人の振る舞いが他人の人生まで狂わすことになりかねない。

100万円だけを自動的に入るような仕組みを作る。
こうなればある程度自経済的な自由を得ることになる。
しかし、どうやって?
ネットワークビジネスでは不可能。
ブログでもなかなか厳しい。
youtube?どれだけライバルがいる?
クライアントワークでは一生無理。
組織を作って事業をすれば前述した通り。責任まで増える。

時間的な自由を求めているのか?
時間の自由は経済的な自由よりも得ることは簡単だ。
明日から仕事もやめて好きなことを好きなだけしたらいい。
半年もすれば貯金も遊ぶ相手もいなくなって終わりだ。

そう、時間的自由は経済的自由の上に成立する。

つまり、自由なんてそんな簡単には手に入ることはないんだ。

一つだけ自由な時間があるとすれば生まれてから義務教育を終えるまでの
期間かもしれない。
幼稚園に行かなくてもいい。小学校中学校は義務ではあるが行かなくても
卒業資格はもらえる。
しかも親の保護下にあるからある程度お金は援助してもらえる。

この期間が一番自由な気がしている。

さて、自由について思う存分に書いてみた。
自由てなんなんだろう?

どこまで行っても青空を見渡したり、果てしない海の向こうを見るような
自由な世界なんてどこにもないのが真実だ。