インターネットなんて普及しなくてもよかった

インターネットって、なんで普及しちゃったんですかね。普及しない方が日本人は幸せだったんじゃないかなあ。
たまにそう思いませんか?僕は思います。たまにね。
なぜそう思うのか。
ここではインターネットが普及したことによる「メリット」と「デメリット」を挙げてなるべく簡潔に説明します。

インターネット、何が良かった?

-それはみんなに出会えたこと、かな。
くっさ。
いいんですよ。それくらいのキモさでいい。
インターネットとは、かくあるべき。

……もともと、地方に生まれ地方で育ち、そのまま地方で死にゆく多くの人たちにとって
「人間関係」というものはその地方の範囲内からは大きくははみ出さないものだったんです。
自分の住んでいる地域より外の事情なんて、知らなくて当たり前です。もちろん当時は電話なんかの通信手段もあったことでしょう。でも、今よりは明らかに他圏の文化を知る機会なんて無くないですか?

そりゃあ、たまに遠出することもあるでしょう。
でも、遠出のために使う電車も、目的地の最寄駅も、デパートまでの大通りも、公園もすれ違う車も
その度に通りがかる人々はおそらくきっと、二度と会うことがない人たちでしょう。

その人がどこから来ているのか、どこへ帰っていくのか、知る由もない。
通りがかる人たちは知り合いではないから、ナンパでもない限りはわざわざ話しかけない。
金時計前で待ち合わせをする人々は、きっと学校や職場やアベックや…そんな近しい空間で知り合った人同士なのでしょう。
みんな、知り合い同士で待ち合わせをしていたに違いない。
顔を合わせたこともない人と待ち合わせるだなんて、怖くてしょうがないですからね。

学生時代もきっとそうでしょう。
同じクラスだけど話したことがないあの子。隣のクラスのマドンナ。
二つ上の先輩。はたまた他校の人。保健室の先生。
なにぶん話すきっかけがないわけだから、その人たちと気が合うかどうかすらも分からない。
毎日通う学校ですら、話す機会がない人ばかりだ。

まあ、ここまで書いた話は全て想像でしかありません。
なんだよ、読ませんなよ。余計な時間使っちまった。と思っている人がいたらすまん。それくらいでいんだ。
インターネットとはかくあるべき。

…何が書きたいのかというと、インターネットが普及したことにより
「機会」が増えたということを書きたいわけです。
インターネットって、要するに「情報の塊」なわけです。
まずそこに膨大な情報があって、ユーザーは情報を見るためにインターネットに接続する。
ユーザーが触れる情報は、好きなものだけでも良い。取捨選択は自由です。
インターネットを触ることは、情報に触れることと同義です。

そして情報の奥には、人間の影があります。
今まで出会うことのなかった東北の人、東京の人、名古屋の人、大阪の人…
おそらくインターネットをしていなかったら一生会うことのなかった人たちがそこに住んでいます。
つまり、インターネットで知らない人と連絡を取り、もしそこで仲良くなったら、何かの機会に遠出をし、その遠出先で会うことだってできるんです。
インターネットの普及により、金時計で待ち合わせる相手が「顔を知らない人」になる可能性だって出てきました。ひょっとしたら「名前すら知らない人」かもしれません。

また、"人との出会い"というものは、従来は第一印象から入る場合が多かったのですが
インターネットの普及により、先に人間性を知り、声を知り、そして最後に第一印象を知る
といった逆手順を追う場合も出てきました。
これは、"人との出会い"に多様性が生まれたといっても過言ではありません。
遠くの地ですれ違うなんでもない人々との縁は、インターネットという大きな"きっかけ"のもと生まれはじめます。

そうしてインターネットの普及は、人々の生活が垣間見える領域にまで達しました。
しかし、人々の生活には、人々の価値観が伴います。
つまり、インターネットは、利用者に対して別の価値観を作り出していきます。

インターネット、悪い部分は?

多様な価値観による弊害です。
どういうことか、簡単に書いていきます。

先ほど、インターネットは「情報の塊」という風に書きました。
そして、その情報は、多くの場合取捨選択が可能なものです。
さらに、情報の奥には人々がいて、その生活や価値観が情報に反映されていきます。
つまり、自分の今まで持っているものとはまた別の価値観、
もっと端的に書くと、「今まであり得ないとされていた価値観」が流入していきます。

具体例を挙げていくと揉め事が起こりそうなので、ここではあえて深くは言及しませんが
インターネットの普及により、旧来の日本では当然とされてきた"しきたり"に
疑問符を投げかける動きが起こりました。
それ自身が有害かどうか問題ではありません。
この価値観の違いにより、良くも悪くも争いが増えてしまっていることにこそ問題があります。

インターネットの普及により、争いが起こりやすくなるとどうなるか。
それは、また別の争いを生み出すことになります。
冗談から始まった対立が、憎しみ合いになる様子を幾度となく見てきました。
インターネットは、良くも悪くも発展してきました。

インターネット論争の構造の原点が、冗談めかした対立煽りであることを知らない人々は
自分の主張に否定的な意見全てに攻撃するようになりました。
そうならないためにも、情報の取捨選択は極めて重要でしたが、できる人はほとんどいませんでした。目につく言葉はだいたい気になっちゃう。にんげんだもの。
その"人間らしさ"こそが、インターネットにおける弊害を生み出しているのかな、と個人的には思っています。

君は何が言いたいの?

この記事を通して、「情報を取捨選択しないとドツボにハマってろくな目に遭わないよ」ということを伝えたかったのもありますが
そもそもこんなことになるのであれば、日本における大多数の価値観は従来通りでもよかったのではないか、
情報を知ることで、余計なストレスを背負っているのではないか、
知らない方が良かった世界とはこういうものではないのか
などなど、個人的に思うところがたくさん出てきてしまいました。

日本はその国民性も相まって、右に倣えの精神が結構ある国です。
あまり深い理由を考えずに"しきたり"を遵守する人、家族や親戚にもいませんか。
何も考えなくて良いので、それが楽なんです。
下手したら、それが人生においてストレスを溜めにくくするコツなのかもしれません。
ひょっとしとら、下手なことを考えたり他と自分とを比較したりする機会が増えたことで
「幸せ」の平均値が下がっていくんじゃないかな、とも思うんですよね。
旧来の日本のしきたりを肯定するわけではないですよ。
「余計なことを考えてストレスを溜めるくらいなら」を前提としています。
僕が書きたかったことは以上です。
この記事を読んでる人がいたとして、「メリット」の前半あたりで大多数が離脱しているだろうなあ。

…もちろん、僕がここに文章を書いていることも、過去にさまざまな文章を書いたことも、インターネットの普及なくしては無かった訳です。
……果たしてインターネットなんて普及しなければよかったんでしょうか。
もしこれをここまで読んでいる人がいたら教えてほしいです。
皆さんはどう思いますか?

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