思うということ

は、自由で、それを自由と思うかどうかは人による。

身体が人の数だけあるように
心が人の数だけ存在しているらしい。
ここでいう「身体」とは、自身が認識でき、それで存在しうるオブジェクトのようなものである。
長くなるのでこれ以上は割愛する。

そして心の数だけ、記憶があり、気持ちがあり、歴史がある。

特に大きなイベントもなく学生時代を過ごした人がいれば
恋人や友達と豊かな青春を過ごしてきた人もいるだろうし
はたまた、誰かに罵られ続ける時代を過ごした人もいるだろうし
学生時代を過ごせなかった人もいたことだろう。

今日は仕事上のお付き合いで飲み会に行った。
最近世間では新人でも忘年会を断ることができる空気が形成されつつあるとか。ニュースで見た。
僕はバカだから断りません。
いつも飲み会は、いく前は楽しそうだな〜と思っていて
いざいくと、話すこともないし、話が続かないし
なんかやっぱり話が面白くない。
というか、話に全くついていけない。外ばっかり見てる。酒を飲んでない段階で既に上の空。
完全に社会不適合者である。

そんな自分は、学生時代、まあ楽しかったし、輝かしいとまではいかないが豊かだったと思う。
いい人たちに囲まれて、面白い・楽しいと思える日を過ごしたりと思う。
恋人はできたことはなかったが、友達は多かった方だと思う。
そう思う。
そう、「思う」だけだ。

何を根拠にそう言えるのかは全く分からない。
他の人に僕の記憶と経験を見てもらうことができたとしたら
大したことないかもしれないし
人によっては死んでも過ごしたくない半生かもしれないし
はたまた、その人にとっては死ぬほど欲しかった経験が少しはあるかもしれない。
でも、自分の記憶・思い出は自分一人の心の中でしか再生できないので
それをどう思うか、他人に聞くのは間違っているし
意味がないことだと思う。
自分の思い出の精算は自分の中でしかできない。
自分の感覚は、自分にしかない。
逆にいうと、人に共感できる気持ちは、その人にとっては100%のものではないのである。

僕が仕事上の飲みの席で話が面白くないと感じていても
ここにいる人たちにとっては面白い話なのかもしれない。
もしくは、つまらないけど盛り上げるために上手く笑おうとしてるといった感じだろうか。

…仮にそうだとしたら、単に僕に社会性が足りないだけだな。
僕だって不自由のない人生を送ってきたつもりだ。なぜ自分に社会性がないのかはよく分からない。
少なくとも順調に過ごしてきたはずだ。
こんなはずじゃかったのに…

…どうやら人の心は思い出と記憶の中から少しずつ形成されていくらしい。
電車が止まるので帰ります。

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