生きてた人と、生きてたこと

※記憶が鮮明である内に、そして自分が残した後悔と懺悔の意味も込めて、この記事を公開します。


令和4年2月12日 午前7時ごろ
祖母が亡くなった。93歳だった。

訃報を受けたのは起きてすぐだった。
話を聞いてすぐ、明日は人と会う予定があるんだけどなあとか
通夜も葬儀もちゃんと出たほうがいいのかなあとか、
慶弔休暇ってどう手続きすればいいんだっけとか、身の回りのことばかりが頭に浮かんだ。
色々悩んだ挙句、同居していた家族の葬儀に出ないのはさすがになあと思い
相手に無理を言って予定をキャンセルさせてもらった。

人生で初めて、「生まれた頃から関わってた人」がいなくなった。
実感が湧かなかった。部屋の奥から喪服を引っ張り出してきても、いまいちピンとこなかった。
2年前の出来事を最後に、祖母とは一度も会っていないからだった。


2019年末のことだ。
家に帰ると強い異臭が家の中に充満していた。
当時我が家は祖母の調理不手際やごみの放置による異臭騒ぎが日常茶飯事だったため、またいつもの如く料理失敗したまま放置してるんだろうな、程度に思っていた。
しかしその日は普段寝るくらいの時間になっても悪臭が漂っており、少し違和感を覚えた。
季節柄、火の不始末で火事になる危険性も考慮し、臭いの原因を特定しようと
いつもより物音がしない祖母の部屋に踏み入ったら、祖母が床に倒れていた。
思い返せばその日の朝、遠くのほうから自分を呼ぶ声が聞こえた気はしたのだが、それが祖母の声だったとは気づかなかった。彼女は朝から倒れていたことになる。異臭の原因は、床一面に滲んだ粗相の跡だった。

祖母は僕に「転んだだけだから持ち上げてほしい。起き上がれば大丈夫」と声をかけてくるが、排泄物のついた衣服と床を目にし、どうしても手を貸せないでいた。
少しして部屋に駆け付けた父親が文句を言いながら祖母を持ち上げ、怪我の有無を確認するため救急車を呼んだ。
祖母は乗るのを強く拒んだが、骨折等していては大事になる。救急隊員の方に迷惑をかけてしまうが、半ば強引に担いでもらうことにした。
嫌々担架に乗せられ恨めしく僕らを見つめる姿が、生前最後に見た祖母の記憶だった。

今まで見たこともない表情でこちらを見つめる祖母を見て、ついに嫌われたのかもなと思った。むしろ今まで嫌われていなかったのが不思議なくらい、僕たち家族は祖母に対して冷たかった。
その後はご時世を理由にして、入院中も施設にいる間も顔を合わせにいかなかった。そしてその間に亡くなってしまった。


昔から、祖母は活発な人だった。
病気知らずで、ほぼ毎日のように焼酎を飲みながら、テレビを見て笑っていた。年金をもらいながら、服を作ったり、近所のおばあさんたちと談笑したりしていた。
僕が幼い頃、犬を飼っていたときは、祖母が散歩に連れていくのが日課だった。
犬がいなくなってからも、僕が学生の内はほぼ毎日出かけていたし
僕が社会人になって、遠方で半ば刑務所のような生活を営んでいる間も、頻繁に外出していたようだ。

そんな祖母のことを、内心少し苦手に思っていた。
幼い頃はとても可愛がってもらっていて、それが大好きだったけれど
家族との関係性に陰りが見えてきた辺りから、祖母の立ち振る舞いに疑問を感じていた。
結婚後の家庭にはよくある話かもしれないが、母親と祖母の馬が合わず、お互いに陰で悪口を言い合っていたようだ。
そしてなぜか父親も祖母のことが嫌いだったようで、祖母に手伝いを依頼されるたびに突き離していた。
基本的に、僕と兄と両親は近くの部屋で生活し、祖母だけが離れた部屋で暮らしていた。
たまに休みの日に料理を作ってくれたが、こげていたり、髪の毛が入っていたりした。
あまり食べたくないので、なるべく自分たちで作るようにした。

孫のこと、とりわけ僕のことを好きだったような気はしていた。
仕事で夜遅く帰ってくるようになったときは「最近毎日夜遅いけど大丈夫か?」、休みの日は「今日は休み?」などと頻繁に声をかけてくれたし
何かお手伝いをしてお駄賃をもらうこともあった。
両親は多分嫌っていたけど、だからこそ僕は嫌いになれない部分もあった。でもそういうところも含めて、総合的には苦手だったのかもしれない。



施設で祖母が愛用していた身の回り品を手に、通夜葬儀の会場へと赴いた。
その時はまだ通夜の準備中だったようで、仏壇の前のスペースに布がかけられていて、少し膨らみがあった。
特に説明は受けていないが、これが遺体なんだと分かった。死因は分からないが、老衰だろうとのことだった。

納棺された時に祖母の遺体を見た。
今まで見たこともないほど痩せていて、髪の色も全面が白くなっていた。
目を閉じて眠る顔は十数年前に亡くなった曾祖母にそっくりで、初めて祖母が亡くなったことを実感した。

葬儀は家族葬だったが、親戚の他に近所のおばさんたちも見に来ていた。
みな、供花を棺に手向けながら、泣いていた。「元気でね」「また会おうね」などと声をかけていた。母親も泣いていた。

両手一杯の花を手向けた。
声をかけようと思ったが、亡くなった後に声をかけられるほど、祖母に善くしていないことがどうも気にかかっていて
心の底から「あの時から会えなくてごめん」と思っていたが、口に出すことできっとあの世で許してくれるかもしれないと、そう思ってしまう自分がとても嫌だった。
今まで祖母にしてきた冷酷な態度がある手前、今更祖母に許してもらえるほどの人間ではないと思っていた。
そして、きっと僕が謝れば、優しいお婆ちゃんなら許してくれるだろうなとも思っていた。
だからせめて、自分の中でこの気持ちを背負っていこうと思った。




今日久しぶりにお婆ちゃんの部屋に入った。
ふとカレンダーを見ると、2019年の12月だった。
部屋を片付けると本人が嫌がるだろうからと、触らずにいた。
あの頃のまま、時が止まっているようだった。
いずれこの部屋も整理しようと思う。
お婆ちゃんの遺品は、まだ使えそうなものは誰かに使ってもらえたらいいな。

後から聞いた話だが、お婆ちゃんは施設に入った後、息子(僕の父親)のことを頻繁に気にかけていたらしい。
いくつになってもきっと子供は可愛いんだろうな。お婆ちゃん、可愛くない孫でごめんね。不出来な孫でごめんなさい。
きっと謝っても許してもらえないだろうから、遺骨を置いた仏壇に手を合わせて、おはようとおやすみだけは伝えようと思う。
今までありがとうね。

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