共同画の話。

まず、共同画とはなにか、というと「誰かと一緒に絵を描くこと」

わたしが共同画を経験したのは三回。

そしてそのどれも、大学時代からの友人とやっている。


初めての共同画


って書くと、初めての共同作業、みたいだけど(笑)。

初めて共同画を描いたのは三年ほど前だ。

きっかけは忘れてしまったが、友人の家の近くの公園で書いたのを覚えている。

そしてわたしはそのとき、ただひたすら自分の世界だけを表現していた。

相手が何を描こうがそこに重ねることも繋げることも接することもせずに、自分だけの絵を描いていた。

相手が自分のテリトリーに入ってきたとき、もやっとしていたような気もする。

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二度目の共同画


それは渋谷のレンタルスペースだった。

友人がイベントのために貸し切っていた。

一度目と違ったのは、友人の子供が同席していたことだ。

自分の世界をきれいに表現していたところに、子供の無造作な筆が走る。

これはもうもやもやして仕方がなかった。

きれいさが、調和が、崩されていく。

傷ついた、というよりも怒りだ。自分のテリトリーに入られた。自分が想像したことを想像したように表現していた部分を、許可なくぶち壊されるのは気分がいいことではなかった。


そして、三度目の


約三年ぶりの共同画。

過去二回の共同画で、わたしが「個」であったことを覚えていた。(「共同」画とはなんぞや、という話である。)

でも当時のわたしはたぶんそれについて思いをはせてはいなかった。

だから、決めていた。今回は、積極的に関わっていこうと。

まずは自分の描きたいものを、と思っていたけど手がすすまない。

きっと、汚したくない服を着ていたからだ。体が思うように動かせず頭ばかりが働いていく。真っ白な紙に、こんなにも心躍るのに、手が動かない。

友人が、ぱたぱたと絵の具を上から振りかける。それを、手で伸ばす。外で拾ってきた葉っぱで、枝ではじいていく。すこし楽しくなってきた。

ほんとうは絵の具が使いたかったけれど、パレットがひとつしかないからクレヨンで絵を描こう。丸を描く。つまらない。友人が絵の具を落とす。楽しそうだ。

経験というのはときによく働き、ときに雑音を生む。

絵を進むにつれて、ここはこんなことが表現されている、ここはこう、と、決め打ちを始めてしまった。そして、なんとなくもうきれいな絵ができあがっているように見える。どうしようか。

そんなとき、友人の子供がやってきた。ああ、きっと一緒に描くことになる。

少しの間は人見知りで話そうとしなかったが、しばらくして筆を持った。

「描きたいなら、おねーさんにきいてみて」

友人が促す。

「描かせてください」

わたしは答える。

「どうぞ」

こどもは描きたいように描く。調和はなく、無造作だ。

きれいな絵が、きれいじゃなくなっていく。汚れていくとさえ思った。

心がかき乱される。ああ、崩れていく。わたしの世界がくずれていく。

母である友人がパレットにのせた絵の具を塗る。いや乗せる、つける、という表現が正しい。べたべた、ぐりぐり。

それでは飽き足らず、絵の具を用紙の上に直接ぶちまける。ああそれ、やってよかったのか。水分のない絵の具はのびが悪い。つぎつぎに新しい絵の具をぶちまけていく。そして筆を放り出し、手形をつけ始める。本格的な破壊だ。

わたしは修正を試みた。ぶちまけられた絵の具に水をふくませ、のばしていく。のびづらい。のびきらない。かたまっていく。ひろがらない。

友人とは「一緒に描きましょう」となった相手だ。

気も知れているので、もう干渉しあうことに抵抗はない。一緒に描いていると絵の変化が楽しい。

けれど、こどもはそうはいかない。「want」だけで介入してくる。ある種、初期のころのわたしがつっこんでくるようなものだ。わたしの思う「調和」からかけ離れている存在というものは厄介だ。


「もういいかな」


わたしはサレンダーした。これ以上手が付けられなかった。どうしたらいいかわからなかった。どうしたいも浮かばなかった。「もういいかな」。

しかし、友人は逆だった。火がついていた。

こどもがぶちまけた黒の絵の具を大量の水と、同色で伸ばしていく。

伸びて、伸びて、伸びて、それは木のようになった。絵を分断したようにも見えた。きれいな世界が消えた。

「もういいの?」

まだ描く気になれなかった。こどものつたない言葉の相手をする。友人はなおも筆を進める。

「いやだったら止めてね」

止める気にはならなかった。描きたいだけ書いたらいいと思った。完成なんてわからない。見ているのも共同画かしら、なんてもっともらしいことを思ってみる。

こどもの注意は、絵の外にうつっている。わたしが再び描き始めて、絵に触れられるのが嫌だった。友人の手が止まるのもいやだった。

こどもの意識が完全にはずれたころ、わたしはふたたび描き始めた。

だいぶ形ができていた。友人が描いた線をなぞるように色を重ね、徐々に派生させていく。

0から何かを作るより、影響をうけてつくるのが好きだ。心が動いたものを表現するのが好きだ。


そうして


こどもは帰宅し、またふたりだけになった。絵ができた。

過去に作品と比べて、共同ができた共同画になった。

変わったねと言ってもらえたこともうれしかったけど、わたしはなにより、彼女と、友人として話ができるようになったことがうれしかった。

そんな秋の午後でした。

こちらは11/30のむちこ博物館の、むちこと友人の踊りの時間で展示予定です。

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