小説家と自殺の話 私的すぎる話
このシリーズは真に衝動的に描き始めて、20分もしないうちに完成してそのまま送り出されるような作品群であり、いつか自分に興味を持ってくれた人が私の『常の思考』を感じてくれればいいなと思って書き留めているものです。
文の始まりから終わりまでが偶然の中にあり、思想は始まりも終わりもない真空です。何かを感じ取る以外には何の用途もない文章ではないかとも思いますが、また同時にこの文章はそれだけで良いのではないかと考えています。そうでなければ『この』文章ではないのではないかとも。
多分自分が自伝みたいな本を出すんだとしたらこんな感じの序文を添えるんじゃないかなって雰囲気の文章ですが、純粋にこのシリーズにはこの序文がなきゃいけないと思ったので。
本題
小説家は常に身を切られるような思いをし、果てには自殺に至るというイメージがある。完全な偏見だが、私が読む中で真っ当な小説、純文学と呼べるようなものは人間失格ぐらいのもので、新しいものに全く手を出さない私はそれ以来純文学の森に歩みを進めたことはない。
だが、小説家はこれでは自殺しても仕方ないなと思うような事態が起こった。これもまた偏見ではなく傲慢なのだが。
私が『小説家になろう』や『ハーメルン』において小説めいたものを徒然なるままに書き残しているのを知っている人もいるかもしれない。今書いているあれらは、個人的には比較的マシ(今回の主題に沿う意では)なもので、書いていてもあまり負担のようなものはない、書かされていたり描くたびに精神が削れていくような思いなんてものは殆どない。むしろ、あれはそもそも自分の中に溜まっていたものであって、身と呼べるものではないからだ(それを完結させることを生涯の目標としているのはいかがなものかという意見は置いておいて)。だが、現在一作も公表されていないシリーズがある。いつかはハーメルンに残しておこうと考えているRe:〇〇というシリーズである。ハーメルンにおいては基本的にはクロスオーバーなど二次創作に関係する物を残しているのだが、その例に漏れず、Reシリーズは全てアイドルマスターシャイニーカラーズの二次創作的なものとなっている。だが、個人的に拘りたいのは二次創作『的』なものになっているという箇所である。あくまでその皮を被っている時点でどうしようもなく二次創作であるのは疑いようもない事実なのだが、私は彼女たちの理解を深めようと思ってそのシリーズを書いているのではないのだ。そのような探究は全てnote内で済ませられるのではないかと私は考えている。
では何をしようとしているのか。それは純粋な私の探求に他ならない。このままでは一作も世に出ないまま一生を過ごしてしまいそうなほど筆が遅いので一つ例を出すが、『Re:produce』という作品は私と三峰結華、そしてアンティーカという形をとって小説がなされる。だが、あくまで私にとってそれはシャイニーカラーズという形態を取るのがこの私について語りやすいからで、アンティーカという組織がその役割を担ってくれると私が考えたからである。その中で語られるのはメンバーの平和な日常ではなく、Pドルと呼ばれるイチャイチャの類の物語でもなく、どこまでも自分勝手で曖昧模糊な私と三峰結華を軸に、ある種『自分殺し』とも言えるような意味不明な堂々巡りを。ただ自分一人だけでそれを展開して仕舞えば掴めないままに終わってしまうので空虚を三峰結華に背負わせるだけの自己満足的な作品を作ろうとしている。
その中で感じるのは、このように作品を書こうとしていくと、どんどん曖昧な部分がなくなっていき、自分の中で『逃げられる』領域(というのが適当なのかどうかはわからない。とにかくわざわざ言語化して白日の元に晒されることのなかった安住の地のようなもの)が削り取られていくような感覚だ。
これまた偏見で申し訳ないが、小説を書く人間は日夜妄想のようなものを繰り広げるのではないかと思う。特に私なんかは常にそんな漢字である。だが、それらは日々狭まってくるのである。いつもは広大な野原をかけていたように感じていたのに、最近はもう自由に動き回ることができない。自分の中で自由に動けていた役者が、言語化された領域で統率されていて、少しずつ不自由になっていくのを頭の中だけで起きた出来事だというのにありありと感じているという。実に不可解な事実が私の前にははっきりと表れている。これをどのように適切に言語化できるのかはわからない。だが、もし誰もがこのような感覚に追われながら小説を書いているのだとしたら、私は小説家が自殺をするというのはあまりにも自明というか、それ以外に彼らが逃げる方法は残されているのかというか、どこか諦めにも似た境地に達してしまった。
人間には想像力が必要である。その中でも生存のための想像力と享楽のための想像力(明確に言えばどちらも生存のための想像力である)があり、どちらも言語化できないながらもはっきりと人間はその境界を本能で理解できている。
そして享楽のための想像力というのはそうして言語化出来ないからこそ享楽なのであり、そこを自由に駆け回ることが出来るからこそ享楽なのではないかと考える。
小説家はその言語化不可能、いや『してはいけない』領域を無理やり開拓し、言語化『していってしまう』職業なのではないか。だから小説家は最後生存するための力を失って自殺に至る。
どこまでも絵空事。どこまでもイメージ。理論にも達することのない思いつきではありながらも、そのようなものをふと頭に思い浮かべてしまった。そして、私はこの考えというのは、単に絵空事と切り捨てるのではなくて、ある程度までは考え抜かなければいけない内容なのではないかと、これまた絵空事のように感じている。
蛇足
Re:produceは私が書こうと思っているReシリーズの作品の中でも飛び抜けて自己満足感が高い作品だと思ってます。まだ一つも完成してないんですけど。
自分がシャニマスの中で好きなのは(そもそも箱推しだからそこまで優劣が存在していないという前提の上で)割と時期の中で変わりつつも、現在は白瀬咲耶なのですが、全期を通して三峰結華がこの一番レースで最有力候補になることは少ないです。あまりファンを怒らせることを言うつもりではないのですが、少しだけ我慢していただけると幸いです。
というのも、三峰結華を嫌いなわけではないのです。先ほども言ったように、シャニマスに出てくるアイドルは大体好きです(今後実装されるアイドルが好きになれなかった時の予防線としての大体であり、基本的に全員好きです)。ですが、三峰結華に関してはいつも空虚を感じるのです。そしてそれは自分自身に対してもでした。
『存在論的、郵便的』という東浩紀さんの本を読んで以来、不思議と自分の中にある乖離を意識するようになりました。自分は常に自分でなり得なかった可能性があると感じると、なれなかった自分を蹴落としてまでなった自分であるという責任は一瞬毎に大きくなっていきます。歴史というのは自由なしの責任であり、時間をかけてその中に空洞が生まれているような気がしていました。というか今も。
同じようなものを三峰結華に感じ取ったのです。有り体に言えば私は三峰結華を通して自分自身を語るという関係性の中に常にありました。三峰結華がきっとそうではないことは分かるのですが、残念ながら三峰結華自身がそうではないと語ってくれることはなかったので、この拗れはもうどうしようもないほどに大きくなってしまいました。
だからこそ、Re:produceはPと三峰結華が一度離れて、もう一度プロデュースを始めると同時に、そのままの自分が生まれ出ることを肯定しようという精神安定的な試みなのですが、それは完成した時に語れたらいいかなと思います。いつか
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