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「押井守監督が語る映画で学ぶ現代史」は20年代をこれから生きる我々にとって必読の書ではないか?

押井守の映画で学ぶ現代史、という本が、滅法面白い。最近の押井守本のなかでは飛び抜けて面白い。
もともと日経BPのweb連載を読んでいて、買う必要はないかなと思っていたのだけれど、時代順にアレンジしつつ、追加コンテンツもあるとのことで、お布施の意味もこめて購入したという、割と消極的な理由なんだけど、期待を遥かに上回る面白さがあった。

本の原理としては、映画を通して社会を語る、という、そこだけ見たら、なんのことはない、いつもの押井節であるわけだが、白眉なのは、「映画が歴史の忘却装置」になってしまっていないか、という着眼点だ。

過去、映画とは、娯楽という枠組みのなかで、比喩として、暗喩として、意識的に社会を語ろうとしていた。また同時に、無意識の産物として、その社会における欲望が表出していた。戦後とは、経済成長とは一体何であるのか。制作者も、評論家も、社会批評の前衛たらんという気概があった。
しかし、現代日本社会にあっては映画はマニアのものになってしまい、そうした意味での映画は成立しなくなって久しい。
(一方、アメリカの作品を見ると、まだまだそういう気概が感じられる。その背景としては、市場規模や制作システムの根本的な彼我の違いがある)

こうした話を、映画の作品批評や思い出語り、フェティッシュという切り口のみならず、製作プロセスや制作・配給の体制、あるいは劇場、テレビ、VHS、配信、といったメディアの側面、さらには娯楽に対する追体験願望やそれに拍車をかけるネットと視聴者の共犯関係といった面まで、実に縦横無尽な切り口で融通無碍に語り倒す。
そこで浮かび上がってくるのは、「社会の前衛たらんとする高邁な意識による映画を作ることは、もう絶望的に難しい」という嘆き節でもあり、一方で、「開き直るだけ開き直った、これからはどんな企画でも何でも来いだ、シリーズだってなんだって、バンバン撮るぜ」という宣戦布告のようでもある。

しかし、ふと思うのだけれど「社会の前衛たらんとする高邁な意識による映画」が、「昔はあった」と語るのだけれど、少数派であることは、現代と変わらないのかもしれない。では、現代との違いとは、なにか。少数派なりに、それが存在する「枠」があった、ということなのかもしれない。いまは、その枠自体が存立していない。

映画館にしろテレビ欄にしろ、以前においては、マスという前提があって、そのなかで枠、すなわちゾーニングがあった。前衛は少数派ではあったが、その枠のなかで、ギリギリのところで、思想と娯楽、価値と商品を抱き合わせることをしていた。だからこそ、PTAがバラエティにクレームを入れる、みたいな構図が成立し得た。
しかし、現在において、配信でもSNSでも、youtubeでも、枠というものが存在しない。枠がないから、欲望や快感原則に忠実なコンテンツを中心とする擬似コミュニティが成立するのみである。ヒットを生み出したコンテンツメーカーを儲けさせる仕組みだけがぐるぐる回り続けている。そこには大人も子どももない。大人の階段を段飛ばしにして最先端をひた走る子どもいれば、子どもの世界にとどまり続ける大人もいる。
蛸壺化どころか、大局観という概念そのものが成立し得ないメディア・認知環境が到来している。

他者と価値観を共有しようという動機が消失し、文化自体が退廃しつつある、という指摘は、これからの社会を考えるにあたって、実に重い指摘なのかもしれない。

例えば現在、大ヒット中の「鬼滅の刃」あるいは少し前の大ヒットの「君の名は。」など、こうした作品群において、大局観がそこにあるのかと問うても、はなはだ疑問である。
もしかしたら、最近のヒットという現象には蛸壺化への反動という動機があるのかもしれない。日常的にはゆるくつながれるコミュニティ、快感原則を再現してくれる動画・音声コンテンツ、といった、ダルい日常を忘れさせてくれる消費への逃避、そうしたものが、「蛸壺への道」であるということはメタ認知があって、うっすらとした不安を抱えている。
その不安が、売れているものにだけはキャッチアップしておかないと、取り残されるのかもしれない、という強迫観念を生み出す。だから、yahooニュースレベルで共有されるコンテンツや身近な人が動員され推奨するコンテンツについては着目するし、一次情報を容易に得られる範囲であれば、行動する。

蛸壷化とメガヒットが両立するロジックとして、この構造は実に明快に現象を説明してくれる気がするが、どうだろうか。

(ちなみに作品内容を少しだけ穿つと、あるのは社会に対する大局観ではなく、個人と世界が急に結びつくセカイ系心象風景であり、同じことを繰り返すループの感覚、あるいは家族、罪悪感、といった半径1m以内のリアリティである。
売れてるから気になって見に行くと、なんだ、みんな似たような心象風景のなかで生きているんだね、と、安心して家に帰り、また擬似コミュニティの蛸壺で安逸をむさぼることができるんだ、と、説明すると、うまいこと言い過ぎているだろうか)

言ってしまえば、ビジネス界隈で、やれDXだ、ビッグデータだ、AIだ、ブロックチェーンだ、ドローンだ、スクラムだ、OODAだ、RPAだ、マーケティングオートメーションだ、パーソナライズだなんだと、実にかしましいが、コンテンツ界でいえばメガヒット級のバズワードがわんさか生まれては消え続けているわけだが、おそらく根本にあるのは同じ構造だ。
自分の半径1mより外にある現実が、想像を超えて進行しているのではないか、キャッチアップできていないのではないか、キャッチアップしないと取り残されるのではないか、という不安。
こちらは実際にSIer含めて様々なプレーヤーに需要喚起があるので、どちらかというとファッション業界に近い面もあるのかもしれない。

そんなことを思っていると、ふと思い出すのがこちらの本だ。

誤解を恐れず、非常に雑なまとめかたをすると、ラップ音楽とBLMは切っても切り離せない関係にあるんだ、ということが、本書では語られている。人口の20%を超えないマイノリティであるアフリカ系アメリカ人の文化である、ブラックミュージックが、なぜここまで市場を席巻することができたのか。そこには「黒人差別」のような単純な構図では語りきれない複雑な状況がある。アフリカ系=BLM支持、という図式は一切成り立たない。

2020年代とは、ポスト・トゥルース、という言葉の意味が実に重くのしかかってくる時代ではないか。トランプが繰り返し、「フェイク」という言葉を用いてメディア・産業・軍事・政治・官僚複合体を批難していること、それが一定以上の支持を獲得している現象について、たかをくくっていては、現在という世相の危険さを見誤ってしまうのではないか。

鍵を握るのは、1982年にヒットした商業的ラップ音楽の始祖、「The message」である。

ある解説サイトに、当時、この楽曲は「CNNニュース」だったんだ、という批評の言葉があった。繁栄を謳歌するアメリカの暗部。それを糾弾し、現実はこうだと突きつけるリリック。
もとをただせば、宇宙衛星から地球を写真撮影し、それが報道され、みんなが世界を自分の視界に収めることができるという勘違いがすべての発端だったのかもしれない。だからこそ、このような映像やリリックが「事件」たりうる。現地のドキュメンタリーを、事実ではなく報道を一瞬にして手にすることのできる衛星通信ネットワーク。(再び穿つと、そうした状況こそ、押井守作品「劇パト2」の制作の動機となり、またそのなかで描かれた社会環境そのものである。)

良識ある視聴者は構図通りに正義に燃え、その火はいまだに燃え盛っているわけだが、制作過程はそこまで単純なものではなく、この作品は、資本の論理と優れたマーケティングセンスの賜物だったんだということが、この本では、語られている。

最後に、この曲の実に秀逸なサビを引用して終わる。

Don't push me cause I'm close to the edge
I'm trying not lose my head
It's like a jungle sometimes
It makes me wonder how I keep from goin' under

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