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衝撃転じて、契機となるか

 珍しく眠気が来るのがゆっくりなのは、お盆スケジュールでまたもや1週間のリズムがイレギュラーなことだけでなく、古い友達から、かなり衝撃的な話を聞いて、なかなかうまく吸収できないでいるのである。
 ここで詳しく書ける話ではないのだけれども、簡単に書くと、彼はあらゆる意味で、自分とは真逆の生き方をしている。その結果として、手にしている資産の世界観が想像を超える世界に突入していて、久しぶりに、世の中にこんな人がいるのかと、あいた口がふさがらない思いをしたのだった。それが、赤の他人ではなくて、古い友だちだから、なおのことなのである。
 彼はもちろん、ぼーっと生きていつのまにかそうなったわけではない。先の見えない時間も長かった。犠牲にしてきたものもあるし、大きなリスクを取っての勝負もしてきた。よくよく考え、調べて、行動して勝ち取ったものもたくさんある。
 それに比べたら自分はローリスクローリターンの甘い世界で、うじうじ悩み、ブツブツ文句を言いながら、省エネ運転でここまできたのである。
 もちろん、それにはそれなりの理由もあり、別に苦労がなかったわけじゃない。最終的に、まわりまわって今までしてきたことが、間違いじゃないとは言い切れないと思うようになったところだったのだった。
 色んなことを、考えに考えて、馬鹿なりに、学びも重ねて、これが人生の真実だぜという自分なりの考えも、持つようになった。
 少々のことでは、それは揺らぐことはないと思っていた。

 なぜ衝撃を受けたのか。なんとなく、自分の中に、上限ギリギリに達した感覚があったのだ。これ以上は頑張ってもしょうがない、と、諦観していたところもある。
 ただ、現状維持を目的にすると、なにか違ってしまうのでらないか、とは、思っていたのだ。まぁ、だからこそ、会いたいと思ったのだし、色々話せばヒントも得られると思ってもいたのだが…想像以上の劇薬だった。

 想像を超えた世界があると知ってしまったあとに、知らなかった自分に戻ることはできない。そこに向き合うのも、向き合わないのも違うから、どうしたらいいかわからなくて、居心地が悪いので、困る。
 ただ、もしそれを知らなかったら、それを選ばないという選択の余地すらなかったのである。そう考えると、いま、このタイミングで、知ったことには、きっとある種の必然性が、あったのだと思う。

 直近の3年間は、とにかく生きることだけが、目的だった。そうせざるを得ないギリギリのところにあった。
 幸いなことに、一歩前に進んで、いま、ここにある問いは、「いかに生きるか」であって、それはどこからどう見ても、自分からしたら大きな大きな進歩なのである。
 大きな進歩をしたと思っていたら、ある一言で、それがなんとも小さく見えてしまったのが、本当に悲しかったし、惨めな気持ちにもなってしまった。
 それはまぁ、仕方ない。そうなってしまった事実を、まずは受け止めるしか、ない。そのうえで、これからどう生きるのか。
 仕事の隙間にかまけて、ぼんやりしていた自分に、喝を入れる、それしかない。

 それと同時に、無駄に無理したり心に偽っても別に物事はうまくいかないことも、肝に銘じる必要もあるだろう。
 新しいものを作ることに、喜びを感じることを大事にする。遊び心が、価値の源泉。自分と家族の身体を大切に、1週間のリズムを刻む。それが、自分のあり方なのだ。そこを崩してしまっては、きっと随分、変なことになる。

 スタイルは、むしろ、もっともっと深く、磨く。その動機として、より強靭なる経済を目指す。そういう順番で、考えるのが、良いのかなという気がしてきた。ようやく、すこし、気持ちも落ち着いてきた。

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