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「そのように表現すべきでない勝利条件」の見本のような言葉を手間ひまかけて生み出す方法

ミッション、ビジョン、バリューを明文化するというお作法が流行っていて、その手法自体をどうこういうつもりはないのだけれど、その受容のされかたに、違和感を覚えることが時々ある。
つまり、スタイルを真似ているだけであって、形式的で、自己満足で、そんなことでは実効性が伴わないのではないかと、疑わしい気持ちになる。

それは、ミッション・ビジョン・バリューを決めたい、決める必要があると考える根本のところ、すなわち動機の問題でもあり、いざ決めようとなったときの、決め方の問題でもあり、決めた内容を浸透させたいと考えたときの制度化や表現物の作成、さらにはそれが実行される現場、もっといえば一人ひとりの人間の問題でもある。

特に激しく違和感を覚えるのは、「バリュー」と呼ばれる概念かもしれない。

大胆にいこう、とか、結果を出そう、とか、真摯にやろう、とか、そういう「良いこと」が「バリュー」という文脈では、語られる。

ミッション・ビジョン・バリューを焦って早急に「決め」たいと考える人達は、たいてい、ミッションとビジョンはどちらが上位概念かを議論することから作業を始める。あるいは、中期経営計画や技術的ロードマップとはどういうふうに違うのか、互いの位置づけをどう考えたらいいのか、ということを議論する。
そうして大枠についての考えを整理するとともに、現実的な問題として、従来からの社是的な文言を吟味し、これから行きたいマーケットがどこかを話して、技術的環境の近未来についての情報を集め、整理する。そういえば今期の目標達成ってどうなんだっけとか、人が足りないよね、とか、採用とか育成とか、ひと通りのよもやま話も挟みつつ、準備はだいたいこのあたりまでで、あとは最後、作文してみんなで集まり、推敲すれば一丁上がり、である。
たいていこのあたりでワーキング・グループは息が切れてくる。「バリュー」については、まぁ、色々と話し合ってきたんだし、大体互いのイメージも共有できていることだし、20個なり30個なりの候補をかきあつめてきて、そこから3個から5個ぐらいに言葉を絞り込むことでいいんじゃないか、という感じに考える。
いざやろうとすると合意形成は難しく、絞り込むだけでも必死の作業になるわけだが、果たして、そうした作業の過程において、その言葉の内実について反省しているように見えたことがない。

「大胆」というが、どんな局面でどうするのが「大胆」なのか?
大胆だと、どういうふうに良いのか?例外はないのか?
言語というものがもっている本質的な多義性を顧みずに文化を規定することほど噴飯な話はない。「実は消極的な提案をするのが真の大胆さだ」みたいなことも、よくある話だ。
一番馬鹿馬鹿しいのは、こうした標語を人事評価のシートに組み込むという発想だ。そういうことをしている人間の頭のなかには、「大胆である」という客観的事態が存在していて、誰の目にも同じように見えるという前提があり、かつ「大胆である」はその企業にとって極めて普遍的な価値観であることを無反省に信じており、また、「大胆であれ」と指示を出すことで、相手は「大胆」になれるという図式が成立している。
それは測定可能であり、表現可能であり、記録できるという前提に、無意識のうちに立っている。

そんな簡単に人間がコントロールできるなら、とっくのむかしに人類は絶滅しているはずである。

ミッションやビジョンの表現も、なんだかよくわからない言葉遊びの段階を超えられていない、本当に実現する気があるのかどうか疑わしい標語のようなものがほとんどだ。警察署や小学校の門前で五・七・五の形式で語られる言葉と、言語表現の水準として、そんなに変わらない。
つまり、誰がどう見ても「正しい」と合意できることを述べていて、同時に、玉虫色であり、解釈の余地を残している。

実はこれこそ、「そのように表現すべきでない勝利条件」の見本のようなものなのである。

具体的なアクションに結びつかない言葉。
解くべき問題の優先順位を示唆しない言葉。

一見、意思疎通ができているように思わせる、思わせぶりな言葉。それがゆえに、実はそれを失敗させるように働き、そのことすらも、意識から排除させる言葉。

なぜ、一生懸命作り上げたミッション・ビジョン・バリューが、そういうふうになってしまうのか。それらが誰に向けて発せられるべき言葉であって、内実として何を語るべきなのか、という大局観がないままに、スタイルとして必要だから、恥ずかしくないように、ひと通りのことを取り揃えようという動機から出発するから、そういうことになるのである。
空虚な標語を生み出してしまう人たちとは、本当はみんなが心の底では問題だと思っている話については、「みなまで言うな、察してくれ」の阿吽の呼吸で、無意識のうちに、一切の表面化を拒んで、避けて通っている。口当たりがよくて、互いの自尊心が傷つかない範囲のなかで、互いの都合のいいように現状認識を上書きできるようなフレームワークをこねくり回しているのである。

その根本原因を考えると、問題を言語化することが、ただちに人間関係上の問題を引き起こし、共同体にいづらくなるという、実に島国的な環境が要請してきた文化であり、だからこそ、日本語を操り思考する人々の心の深層で無意識のレベルから意識を縛り続けているのだろう、というところに、仮説を置かざるを得ない。もちろん、もっとしっかり考えると、全然異なる理由も考えられるかもしれないが、地理的条件、地政学的条件、風土的条件が歴史を重層させ、それに適応的な言語体系を促し、その言語が無意識に作用している、という見立ては十分に妥当性のある見方であるとは思う。

あるいは、思考の光は、ミッション・ビジョン・バリューというスタイルを生み育てたアメリカ西海岸にも照射しなければならない。つまり、ギリシャ・ローマから連綿と紡がれてきた市民社会というOSである。日本列島が悠久の縄文の夢に浸っていたころ、ユーラシア大陸の向こう側では、異民族同士の文明の衝突がすでにあり、戦争による副産物としての奴隷や混血という存在が、「どのような条件を満たせばコミュニティにおける意思決定者足り得るのか」を問うてきた。個人とはなにか、他者とはなにか、そして、契約とはなにか。

ローマの興亡史の過程で、キリスト教という事件が発生する。ルネッサンスがあり、近代化があり、フランスに覇権が移行して、そこでまた市民革命という理想が掲げられる。アメリカという覇権においてもまた、南北戦争があり、そしていまBLMがある。こうした歴史の縦軸とは、常に、社会において自分で意思決定を行い、他者と対等に契約を交わすのは誰かという問いだったのである。

欧米社会において、雇用契約とは有期が前提であるが、日本社会が企業や契約というシステムを輸入したとき、おそらく、無意識の所産として、そうはならなかった。なのでいまだに有期雇用契約は不正規雇用だという概念がまかり通っていたりする。いつまでたっても選挙はなぁなぁだし、三権分立もなんとなく成立させてはいるものの、その根拠に関心を払う人は少ない。超大国を隣に控えながらも、海という防御壁をもって隔てて、ときには傘下に時には反抗し、あいまいな関係性を保ち続けてきた。マッカーサーが「15歳」と喝破したのは実に正鵠を射ていた。そろそろ25歳ぐらいにはなったかもしれないが、モラトリアム気分は全然抜けていない。

異民族の支配、あるいは奴隷という制度がDNAに染み込んでいないのが、日本列島に暮らす人々のありようなのである。

ミッション・ビジョン・バリューを定着させようと輸入してきた人たちは、おそらくそうした土着性を打破するために輸入してきたはずである、しかし、いざ現場に根を下ろしたとたんに、そのツールがむしろ土着性を糊塗し、むしろ強化するための機能を発揮してしまう、という皮肉が導く先(であり同時に原因でもある場所)は、安楽という名の閉塞感である。

そうしたメタな構造も含めて、打破する方法は、「ある」んだという実感が最近芽生えてきている。しかも、そんなに戦闘的な方法ではない方法で。飢餓を再発見すること、そして飢餓を恐れないこと。いや、もっと正確に表現するならば、ある部分での余剰があり、そうでない部分での飢餓があること。

そういう発想にこそ、ヒントがあると思う今日この頃なのである。

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