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シン・エヴァ、ぶらどらぶ、そしてカルピス理論

 例えば庵野監督について語る言葉として、以下のリンク先で語られるような見方は、一般の批評家からは逆立ちしても出てこないと思われる。

 シン・エヴァの面白さは、自分にテーマがないことを、監督自身が作品のなかで堂々と宣言したところにある。なので、上記の批評は悪口や批判の類ではなく、ただ真実をそのまま述べているにすぎない。
 思い返せば「破」のときも、押井監督はメルマガで同じような話をしていた。当時はそこそこ炎上していたが、今回はそうはなっていない。庵野監督本人が認め、世間も同じ結論に到達したことを傍証している。

 一方で、こうしたインタビューを読むと、では押井監督のテーマは一体なんなんだ、という話も考える必然は生まれる。
 ごく短い言葉で要約すると、それは「社会への違和や怒りを動機とし、SF的想像力や軍事的モチーフを用いて人間存在の核心について考え、映画への偏愛と教養というフィルターを通して表象化した構想を、実制作の手練手管によって具現化し、語る」ということになる。
 シン・エヴァと時を同じくして、ぶらどらぶという名の押井監督の最新作もまた、絶賛と酷評の二分にさらされている。上述したテーマの前半でなく後半に重心が設定されているからであるように見える。
 世間の期待通りであれば売れる、とか、それを裏切れば売れる、とか、そんな簡単な方程式では解けないのが、コンテンツの謎なのだろう。だったら、自分の信じるものづくりをする、以外に選択肢はない。
 では庵野監督にとって、シン・エヴァは「自分の信じるものづくり」たりえていたのだろうか?一本の映画としてのテンションを考えると、そういう風には、見えなかった。

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 作家自身の主観的な達成感はさておき、作品自体の社会的存在感という意味では、ぶらどらぶはシン・エヴァよりも2桁、下手すると3桁ぐらい小さい。

 ここで、ふと、「コンテンツの市場規模は、その濃度に反比例する」という法則を立ててみる。

 エヴァンゲリオンがカルピスウォーターだと喩えるなら、押井作品は、カルピスの原液を、さらに濃縮して、そのまま差し出した感じがある。

 例えば自分自身でオリジナルの楽曲をバンドメンバーといっしょに作って、レコーディングして、配信する、といったことを実践してみると、つくづく痛感するのは、創作行為とは、自分が聞いてきた音楽の再生産なのだということだ。
 もちろん自分固有のモチーフやテーマはあるのだけれど、出来上がったものを聞いてみると、思春期に傾倒していた作品の片鱗だらけである。
 そこを突破し、自分固有の表現を目指す、というのは「作家である」という自意識が自分にかける呪いなのかもしれない。

 おそらく、人に作家性というものがあるのだとしたら、その祖型は思春期に形成されるのだろう。大人になって社会性を身につけたり、誰かに編集してもらうことで(つまり、カルピスの比喩で言えば、原液に水や炭酸、果汁や香料を加え、パッケージすることで)お金で取り引きすることが可能な商品となる。

 カルピスで言うところの原液、つまり作家性のコアとは、先人から受け継ぐものなのだ。既存のコンテンツから、自分が受け継ぐものを探し、選ぶ基準は、おそらくDNAの配合具合と幼少期のトラウマによって形成される。
 その時代の量産・消費システムに適応したコンテンツが、結果的に、次世代に残る。

 おそらく人類は、そのようにして文化的資産を拡大再生産してきた。

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 書きながらの思いつきだったけど、カルピス理論、結構、いい線をついている気がする。ちなみに宮崎駿作品はどうだったかというと、ポンジュース。高畑勲監督は、青汁。細田守監督は、ノンカロリー・コーラ。

 音楽業界でも、お笑い業界でも、似たような構造がある。

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