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法の精神と正義の味方

 法の精神って、なんなんだろうなぁと思う。

契約自由の原則: 契約の締結・内容・方式を国家の干渉を受けず自由にすることが出来る。具体的には以下の4つを意味する。
契約締結の自由
相手方選択の自由
契約内容の自由
契約方法の自由(形式の自由)
(Wikipediaより)

 つまり、公序良俗に反するようものや、立場の違いを利用して強いものが一方的に有利になるようなものでない限りは、法よりも契約が優先する。

 原則論としては、契約は、契約通り執行されてしかるべきなんだけど、現実問題としてそれが不可能だ、という状況は、まぁ、珍しく話ではない。一生懸命頑張ったけど、納期に間に合いそうもない、とか。前提としていた状況が変わってしまって、払うものが払えない、とか。
 本来、そういうあれやこれやも想定したうえで、じゃあどうしようかということをあらかじめ合意するためのツールとして契約書があるわけだが、実際のモノとしてはそうとうに複雑だし、だからこそテンプレートとルーチンワークの所産として締結されることも多いのが実態である。

 なので、契約書でうたったことと現実が大きく食い違ってしまい、どうしようとなることは、実際には結構遭遇することが意外と多い。そして、そういう局面に至って初めて、契約書を互いに読み直して、次の方針を相談合意していく、なんてこともままある。
 なんだか順序が逆転してしまっている気がするが、まぁ、次善の策としては、そういうところが穏当なところになる。
 そして、その結果、共通認識の形成に至らず、決裂し、敵対関係となってしまったら、「出るとこに出よう」ということになる。
 日本社会では、「出るとこに出た先にある判決」がどうかという以前に、出るとこに出ざるを得ないという、そういう事態を招くことそのものが、組織人としては、その時点ですでに致命的だったりする。

 なので、契約とはあくまで交渉カードなんだ、という位置付けでコミュニケーションが図られることが多いように思う。

 それが、近代法の精神を高度に応用した姿と言って良いのか、それとも、前近代的な風習なのか。ひと昔まえの「進歩的知識人」なら、考えるまでもなく後者だと言うかもしれないけれど。

 でも例えば、こういうことを考えるとき、原作の方の攻殻機動隊にあるセリフを思い出してしまう。手元になくて、記憶からたどるしかないんだけど、バトーとフチコマの会話で、「基本的人権は確かに認められているし、そうあるべきだけど、食べ物が現にそこになかったり、銃で撃たれたらそこでおしまいなのが現実だ」みたいなことが書かれていた。
 だからこそ、プリミティブな意味での本質的な力をちゃんと自前で用意して、己の正義は実力で貫きなさい、ということが、かの作品の哲学であった。

 法の元にあらゆる主体は平等であり、社会的合意があるから皆が生かされるという考え方。最大多数の幸福を実現するための社会的合意とは、人類史上の価値観として最も崇高なものだと思う。しかし同時に、それは個人の側に甘えが許されないという峻厳な前提の上にこそ成立する。

 他者としての正義の味方はいない。それは、自分でなりなさい、自分たちで作りなさい。フランス市民革命とはまさしくそういうことだったのではないか。また、欧州の文明観における通奏低音としての、その哲学を、日本社会は、つい、見落としがちではないか。
 日本社会の文明観は、やはり、和をもって尊し、である。他者とは稀他人=マレビト=客人であり、マレビトは神様なのである。荒ぶりもするし、和みもする。精一杯、もてなして、お帰りいただく。

 日本現代史の最大のヒーローが、鉄腕アトムだったことも、象徴的である。近代科学文明の申し子であり、人形であり、依代としての正義の味方。永遠に純真でケガレのない象徴。

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