見出し画像

現実だけど生身じゃないアイナナを愛している

「アイナナは現実」「アイナナ、存在してる」。

アイナナを愛する人たちが、折に触れて口にする言葉だ。

アイドリッシュセブンの運営は、徹底的にアイドルたちを「生身の人間」として扱う。彼らがアイドルとして活躍する場は作中でなく「私たちの、この現実」であるかのように思わせてくれる。

そうしたプロモーションを受けて、私たちはこの現実世界の中に彼らの息吹を感じる。私たちの大好きなアイドルたちは、ゲームの中、アニメの中にだけ存在するのではなく、私たちが暮らしているこの世界のどこかにいる――アイドリッシュセブンが熱狂的に支持されるのは、ストーリーやキャラクターが魅力的だというだけでなく、そうした現実感を絶え間なくもたらしてくれる喜び、ある種の共同幻想を高い解像度で同志と分かち合える楽しさゆえだろう。

けれど、彼らは、「本当の生身の人間」ではない。

ない、と言ってしまうのは失礼だとか、自分はそうは思わない、と言う人もいるのだろうけども。

でも、彼らが本当の意味で生身ではないことが、私にとっては安心材料で、彼らというアイドルに心底のめり込める、彼らへの愛を発信し続けていられる理由だ。


アイドルを始めとした芸能人に、あまり興味は持ってこなかった。この俳優さんは好きだな、と思うことはあるけれど、ものすごく熱意を持って追ったことはない。子供時代から、好きなものは漫画や小説、アニメ、ドラマ、映画。フィクション作品ばかり愛し、フィクション作品のキャラクターばかり愛してきた。

例外だったのはスポーツだ。

最近はめっきり遠ざかっているけれど、家族の影響でJリーグの応援に熱を入れた時期があった。スタジアムに足を運び、サポーターエリアで声を枯らして応援し、勝敗に一喜一憂した。リーグ優勝の瞬間を見届けた日のことは忘れられない。

フィギュアスケートも好きだった。好きと言ってもネットとテレビがメインのお茶の間ファンだけれど、情報を追いかけ、テレビの前で固唾を呑んで演技を見守り、拍手を送り、結果に泣いたり笑ったりした。

応援って、とても楽しい。誰かの一生懸命、誰かにふりかかる避けがたい運命、誰かが起こす奇跡、誰かの人生のドラマを見守り、がんばれと声を送り、共に泣いて共に喜ぶことは、人生を何倍にも豊かにしてくれる。

スポーツ観戦の楽しさは、「ドラマが今まさに目の前で起きている」と実感できることだと思う。想像もできないようなことが、しばしば起きる。爆発的な喜びも、信じられないような悲劇も生まれる。こちらの心を動かすために誰かが作った物語ではなく、様々な状況や事情や思惑や努力が複雑に絡み合って、その場・その瞬間にしか生まれ得ない物語。どうしてこんなことが起きてしまうのかと、天の采配に寒気がするような、その感覚は、フィクションではないと思っているからこそ持てるものだ。

だけど、ときどき怖くもなる。

スポーツファンや、スポーツ報道の言動は、しばしば非常に残酷だ。パフォーマンスが良くなければ厳しい評価を下すし、選手の人格や、容姿にだって踏み込んで、彼らのなにが良くてなにが良くないのかを語る。言動の断片や置かれた状況をつなぎ合わせて、人間関係の内実を勝手に推し量り、彼らの内面までも想像して、好き勝手なことを言う。

プロスポーツならば、ある程度は仕方ない面もあるだろう。我々がスポーツの楽しさにお金を払うから、プロという職業が成り立つ。
とはいえ、それにしたって踏み込んでいい範囲の限度はあるだろう。パフォーマンスを維持する努力はプロの責務だし、チームや自分の人気を高めてファンを増やすのも重要な仕事だろうが、それだって私生活や人格のすべてを好き勝手に語られていい理由にはならない。

アマチュアであればなおさらだ。彼らは私たちのための見世物として競技をしているわけじゃない。
もちろん、競技の人気が高まり、観戦チケットや放映権が売れたり、競技者の裾野が広がることで、強化に繋がり、世界で戦える競技に育っていくという構造はある。でもそれを、外野で楽しんでいるだけの我々が、ネガティブなことも含めて言いたい放題に言う理由にしていいわけじゃない、と思う。

ネガティブな言葉を言いたくなる気持ちは、ものすごくわかる。愛すればこそ、こうあって欲しいという望みも強くなる。望んだ通りではないときの不満も強くなる。

そんな鬱憤を直接言い合える相手が近くにいれば幸いだ。

私自身、家族との会話で、贔屓の選手、贔屓のチームについて、あれがダメだこれがダメだと言うことは、少なからずあった。こういうところが良くないんだよ、こうしたらいいのに、あの人これができないからねぇ、などと、第三者だからこそ我々は気軽にダメ出しをする。
そういう言葉を口にするとき、「自分はよく理解しているからここまで言えるんだ」という快感があるものだ。

けれど怖いのは、いまのこの時代、そういった言葉が簡単に本人に届いてしまうことだ。

「わかっているからこそ言えるダメ出し」は快感だ。それを、同じ趣味を共有する仲間内で言い合うのは楽しい。ただただ応援し、肯定する「浅いファン」よりも、短所まで含めて把握し、それでもなお愛し、愛すればこそ建設的な改善案を語れる自分たちは「真の理解者だ」、そういう気分に浸れてしまう。

だけど、それを他者の目に見える言葉として出すことで、愛する対象になんらかのダメージを与えてしまわないだろうか――そういう怖さを、最近ずっと感じている。

その人の内面を、その人の人格を、弱さを、勝手に語ること。その人自身の人生のドラマを、物語として味わい、楽しむこと。そういう無邪気で残酷な言葉を、誰にでも見える場所で発すること。

そうすることで、自分が応援しているはずのその人に、取り返しのつかない傷をつけてしまわないだろうか。

そう考えると怖い。

私の経験から、スポーツの応援について書いたけれど、スポーツに限らず生身の人を応援するというのはそういう怖さがあるなと、最近とみに思う。

じゃあ、語らなければいい。それはもちろんそうだ。
でも、楽しみたい気持ちを完全に手放すことは難しい。波乱に満ちた誰かの人生の物語は、あまりにも魅力的だ。そして、同じ相手を愛する者同士にだけ味わえる深い共感や未知の情報の交換、時間や空間の共有も、何物にも代えがたく魅力的な体験だと思う。

私がアイナナにこんなにものめり込んでいるのは、たぶんこれが理由だ。

リアルの息吹を感じられる、ドラマチックなフィクション。
物語の登場人物でありながら、この現実世界の中にその存在を強く感じられる、けれども本当の意味での生身ではないために「私が直接的に傷つけることはできない」相手。

彼らが物語の登場人物であるからこそ、本当の意味の生身であれは知り得ない、赤裸々な私生活、複雑な家庭の事情、心の中で起きたことまで、私たちは知っている。

そうでありながら、彼らの「アイドルとしての仕事」を、まるでこの世界に存在するアイドルであるかのように、リアルタイムに受け取ることもできる。

彼らを人たらしめようとするプロデュースは、ファンの熱量ある応援と化学反応を起こして、しばしばドラマを起こす。物語そのものはフィクションでありながら、その場・その瞬間にしか生まれ得ない物語、あらかじめ用意されたわけではないドラマをも、アイナナは私たちにくれる。

だけど "彼" はけっして、私の発する言葉を、その瞳に「直接」映すことはない。

だから私は安心して、"彼"の内面について、弱さについて、失敗について、悲しさについて、語り尽くすことができる。類推ではなく事実として知っている、彼の苦しみや挫折の過去、未だ克服していない短所、未来に待っているだろう苦難を語り、彼が周囲の人にどんな感情を抱いているか、私の願望を込めた物語を作り上げすらする。彼の心に傷を残し、現在の人格形成に至っただろう過去の体験を想像し、その痛ましさに呻くことさえ楽しんでしまう。
そういう物語が、そういう思い入れ方が、どうしたって好きなのだ。

そして、そういう表現をしながら、私はその同じアカウントで、アイドルとしての彼らの活動を応援し、声援を送りもする。

なんて贅沢なんだろう。

「生身ではない」と言ったって、コンテンツの作り手を悲しませたり、残念な思いをさせてしまう可能性は、もちろんあるだろう。生身じゃないからなにをやってもいい、と思っているわけじゃない。

けれども私がどんなに邪悪なことをしても、「彼」の心そのものに関与することは、私にはできない。彼らを直接傷つけうるファンは「物語の中のファン」であって、私自身ではない。
自分勝手な言い草だけれど、彼がそういう安全圏にいてくれることが、ありがたく、嬉しい。

私は、一方的な愛を注ぐ相手とは、そういう距離でいられるのが好きなのだと思う。だからフィクションを好んできたし、どれほどにこちらに肉薄しても薄皮一枚が存在する、アイドリッシュセブンという「フィクションでノンフィクション」な物語に、ずっと熱狂し続けている。





(まあ、私は一織推しなので……たとえ彼が本当に生身の人間であって、私自身の言葉が届いてしまったとしても、有象無象のマスのうちのひとつとして片付けて貰えるのだろうなとは思うんですが。でも、そういう人だと思えるのも、彼がフィクションの登場人物で、私が彼の内面を知ることができるからだ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?