誰にも話していない話。

ネットで調べたらすぐに出てくる、とある事件の被害者と1度だけ関わったことがある。

いわゆる、いじめだ。
被害者と関わったのは、ある団体同士の交流会のようなもので、1泊2日のイベントだったが、私と彼は別の班にいた。

今でも、何故その異様な光景を疑わなかったのか、後悔がやまない。

別の班にいた私を含む複数の人間の輪に、彼と2,3人の男達が近付いてきた。

そして挨拶もそこそこに、1人の男がこう言い放った。「こいつ、こんな事されても何とも無いんだぜ。」

次の瞬間、彼はその男に投げられた。
地面に体を叩きつけられた。

それでも彼は、そのニコニコとした笑みを崩すことなく、ただ男たちの行為を受け入れるだけだった。

何故、気付かなかったのだろう?

1泊2日の交流会が終わり、車で去る私達は車内から彼に手を振った。
その時の彼は、やはり変わらぬニコニコ笑顔で私達に応えてくれた。

その約半年後、彼は命を絶った。

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何度も思う。何故いじめに気付かなかったのだろう?

そしてもう一つ。

あの時気付いていたとして、何ができたのだろう?

当時はスマホはもちろん、携帯電話も普及していない。インターネットも普及していない。
手紙を書こうにも、住所も分からない。

手紙を書いたとして、何を書く?
いじめを止めるほどの手紙を書けるのか?
彼が思いとどまるような手紙を書けるのか?

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と、何を書いても免罪符にもならない。
私がいじめに気付かなかったという事実は消える事がない。

そして今現在、私にも子供がいる。
我が子がいじめられたらどうしよう?という事は、大抵の親が一度は考える事だと思う。

それ以前に、いじめに気付くことが出来るのか?という不安のほうが大きい。

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この独り言を書いたきっかけは、大河内清輝さんのいじめ自殺事件から20年を迎えたという、NHKの特集を今見たからだ。

ここ1,2ヶ月、かれこれ3回ほど同じ番組に出会っている。録画したのではなく、たまたまNHKを付けたらやってたのだ、3回とも。

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普通に考えて、投げられたら嫌だ。
頭を叩かれたら嫌だ。

しかし彼は何をされてもニコニコしていた。

恐らく、それが彼自身のダメージを最小限に抑える役割を果たしていたのてはないだろうか。

抵抗すれば周囲からの攻撃は激化する。
だからニコニコして、相手の気に障らないように全力を注いだ。

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もしくは、笑顔は気持ちを抑える効果があるとも言われている。

どんなに嫌な事があっても、寝る時に無理にでも笑顔を数秒作るだけで、気休め程度にでも幸福感を得ることができるという。

それを常に行っていたと思うと、本当に悲しい。

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いじめは身近に存在する。

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