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京都の祭りは葵祭

 葵祭は賀茂祭。加毛大御神を祀る賀茂別雷神社(上賀茂神社と呼ぶ)とその御祖を祀る賀茂御祖神社(下鴨神社と呼ぶ)の祭り。欽明天皇の御代に凶作が続いたことから祭礼を行ったのが始まりとされる。江戸期に社紋にも使われているフタバアオイの葉を着けたことからそう呼ばれるようになったという。

 毎年5月15日、御所から天皇の勅使一行が賀茂御祖神社(上賀茂神社と呼ぶ)を経て賀茂別雷神社(下鴨神社と呼ぶ)に向かう「路頭の儀」と、両神社で行われる「社頭の儀」が葵祭りのクライマックスとなる。それに先立ち、5月1日には上賀茂神社で「競馬足汰式くらべうまあしそろえしき」が、3日には下鴨神社で「流鏑馬神事」が行われる。また、5月4日には 祭りに奉仕する斎王代以下女人列に参加する四十余名のみそぎ祓を行う「御禊神事」が執り行われる。この儀式は上賀茂神社と下鴨神社が交代で行い、今年は上賀茂神社で行われた。さらに、五日には下鴨神社で「歩射神事ぶしゃしんじ」が、上賀茂神社で「賀茂競馬かもくらべうま」が行われる。そして、5月12日には比叡山麓の御蔭山より神霊を迎える「御蔭祭みかげまつり」が行われる。

 「路頭の儀」では、天皇が賀茂神社に行幸する代わりに、天皇の勅使が賀茂神社に詣でることにはなるが、実際にはこの勅使も行列には加わらず、そのさらに勅使の代理が行列に加わり、行列中の最高位の人となる。その役を「近衛使代このえつかいだい」という。天皇の代理のさらに代理ということらしい。今は宮内庁の掌典が務めるという。右腰に銀製の魚袋を付け、騎馬ということは武官ではあるが殿上人でもあるらしい。その本列につづき、次に「斎王代さいおうだい」の列が続く。斎王代も斎王の代理である。斎王は平安時代には内親王が選ばれ、祭りに奉仕していたが、その代理ということで在京の未婚の女性がその役を務める。

 斎王という役は平安時代よりも前にもあったらしい。伊勢神宮にも斎王がいた。最近ではもと紀宮内親王であった黒田清子さんが勤めていた。古代はかの有名な垂仁天皇の皇女倭姫や崇神天皇の皇女豊鉏入日賣や孝霊天皇の皇女倭母母曾毘賣もそうだったのかもしれない。

 葵祭の行列には「山城介やましろのすけ」も加わる。「山城使やましろつかい」という。御所を出るとそこは洛外となり山城国の国司の管轄となり、行列を警護する目的で加わる国司庁の次官が務めるという。葵祭は賀茂祭なので当然のことではある。山城介に警護されながら御所を出た行列は賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)に向かう。

 山城国は和気清麻呂の地である。宇佐神宮神勅事件で天皇位を道鏡から守ったという「護王」の名を与えられてはいるが、光仁天皇擁立につながる事件でもあり、藤原氏や秦氏と協力し、自らの支配地に桓武天皇を招いた。

 御所からの行列が下鴨・上賀茂両神社に着いてから行われる儀式を「社頭の儀」という。勅使からの御幣物の奉奠、御祭文の奉上、牽馬・舞人の東游などが行われるといわれる。最も重要な儀式は上賀茂神社における最終の儀式である勅使の奏上に対する神霊の返答であるともいわれる。

 その問いに対する神霊の返答は「諾」と決まってはいるという。しかし、その問に答えるという儀式は、古代八咫烏に道案内をしてもらったといわれる神武天皇の磐余を継ぐものであるともいわれる。


 賀茂別雷神社の御祭神は加毛大御神であって、賀茂御祖神社の御祭神は加毛大御神の御祖であり、比叡山麓の御蔭山より神霊を迎える「御蔭祭みかげまつり」は賀茂御祖神社で7月12日に行われる。比叡山は日枝山。比叡山には日吉神社もある。

 


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