神の「居場所」と「正体」を探求
「カタカムナウタヒ」には、日本の「神」(神道)に似た名前が、多々出て来ます。ただしそれは「名前」ではなく、「現象」や「しくみ」の「ヒビキ」(音)として登場しています。
一方で「神道」では、神には「名前」があり、「古事記」などの古文書で、度々登場して来ます。
なぜなのか?「神」って存在するのか?どこにいるのか?
「神」ってなんだろう?
だれも教えてくれません…
みなさんも、何も解決しないまま「ここまで」過ごして来ていませんか?
なのに、「神頼み」「神社参拝」していませんか?
どこの誰に、何をお願いしているのでしょう?
この自分の行動に、「疑問」を感じませんか?
「天皇家」の存在
第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗北後、「天皇家」は「国の象徴」と言う立場において、「国政」には携らずに、国民生活を見守って下さっています。また、その象徴のお立場も、「メディア」「学校教育」での、都合の良い教えでしか、私たちには伝わってないのではないでしょうか?
自信をもって、「日本の天皇制」を説明出来る人は、少ないのではないでしょうか?
・天皇陛下とは、全神社の「神主」のトップであり、「国民の平和と安全」と「国の繁栄」を、神様に「報告と祈念」の儀式を行う。
・天皇陛下には「戸籍」が無く、日本国民では無く、日本国の象徴である。
・初代「神武天皇」からの「血」を引き継ぐ存在
このような認識でいませんか?
少し偏った(カタによった)考えですが、一言で言うと、
「三種の神器」を、永代まで継承するお立場
だと私は認識しています。
グローバルな環境や政治を考慮すると、「宗教的観点」や「経済的覇権」に影響してくるので、現在社会では「表」(陰)には出せない内容ですよね?
しかし「カタカムナ」を学ぶと、この一言で、「存在理由」が「納得」が出来て、すっきりするのです。
「三種の神器」とは?
・「八咫鏡」(ヤタノカガミ)
・「八尺瓊勾玉」(ヤサカニノマガタマ)
・「天叢雲剣」(アマノミラクモノツルギ)のちに「草薙剣」(クサナギノツルギ)
この3つが「三種の神器」と言われ、歴史は不明(非公開)ですが、古来より天皇家で継承されている「品」です。
また、直接見る事も、基本的には許されていなので、イメージですが、
このような「品」をイメージします。
古事記によると、「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)が、高天原(たかまがはら)から天孫降臨(てんそんこうりん)・地上界へ降り立つ時に、天照大神(アマテラスオオミカミ)から「神代」として授かったと書かれています。
詳しい詳細は、とても長くなるので、ここでは省略しますが、
「八咫鏡」は、天照大神が「天岩屋戸」(アメノイワヤト)にお隠れになった際に、石凝姥命(イシコリトメノミコト)が、顔出した天照大神に、興味を持たせるために作った「鏡」(カガミ)
「八尺瓊勾玉」は、八咫鏡と共に、玉祖命(タマノオヤノミコト)が「榊の木」に吊るした、大きな「勾玉」
「天叢雲剣」(草薙剣)は、須佐之男命(スサノオノミコト)が、出雲国で倒した「ヤマタノオロチ」(八岐大蛇)の尾から出て来た「剣」で、のちに「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)が譲り受け、火で囲まれたときに、周りの「草」を、「剣」で「薙ぎ」しのいだ事で「草薙剣」と言われています。
「カタカムナ」の3つの「中心図像符」(シンボル)
「カタカムナウタヒ」には、渦の中心に、ウタヒの概要を記す3種類の「図像符」があります。
「ヤタノカガミ」は「生命のしくみ(循環)」を表し、これが「カミ」であると唄われています。そして、古事記に出てくる「八咫鏡」と同じ「音」で表現されています。
「ミクマリ」は、「魂」を表し、「-+(陰陽)電気」の力(引き合う)で、「命」(イノチ)が発生する現象を説明しています。
「フトマニ」は、「魂」が宿ったあとの「カタ世界」(目に見える世界)の現象を表し、4方向にエネルギーが放出している事を説明しています。
「三貴子」(みはしらのうずみこと)
古事記では、伊邪那岐命(イザナキノミコト)が、最後に生み落とした最も貴い「三つの柱」を「三貴子」(みはしらのうずみこと)と記載されています。この「三柱」とは、
・天照大神(アマテラスオオミカミ)で、伊邪那岐命の「左目」から生まれ、高天原を知らせ(納めろ)
・月読命(ツキヨミノミコト)は、「右目」から生まれ、夜の食国(オスクニ)を知らせ
・須佐之男命(スサノオノミコト)は、「鼻」から生まれ、海原を知らせ
この「三柱」で、それぞれに命を出しています。
カタカムナを理解している人は、直ぐに気づくと思いますが、「みはしらのうず」とは、まさに「ウタヒ」の形状で、「マワリテメクル」から「フトタマ」の「実体」が「ミコト」となる事をイメージ出来ると思います。
「三貴子」(みはしらのうずみこと)とは、「カタ・カム・ナ」を、生命が「マワリテメクル」を行い、「命(ミコト)」が作られた、「3つの柱」と私は考えます。
「柱」とは、神の数の単位を指しますが、「マワリテメクル」とは、
このような動きをイメージする事から、「柱」(ハシラ)と呼ぶのではないでしょうか?
また、天照大神だけが「神」(カミ)で、月読と須佐之男は「命」(ミコト)と呼ぶのは、なぜなのでしょう?
ウタヒ第2首では、「ヤタノカガミ」が「カタカムナ」で「カミ」であると唄っています。
「ヤタノカガミ」は「全ての生命のしくみ(循環)」を指します。
そして、ウタヒ第3首では、このしくみ(循環)で、「命」(ミコト)が出来上がる事を指していると考えます。
要は、「カミ」の中で「ミコト」が生まれる、そう私は捉えます。
神(カミ)と命(ミコト)の役割
古事記の「三貴子」(みはしらのうずみこと)と「カタカムナウタヒ」を照らし合わせて考察すると、
天照大神は「ヤタノカガミ」を象徴している事から、「カタ・カム・ナ」の全体を表し、月読命は「夜」=「陰」(カタ)の世界、右目と左目から、それぞれが生まれている事から天照大神は「陽」(カム)の世界も兼任していると考えます。
そして、須佐之男命は、鼻から生まれてる事で「カタ」と「カム」に精通している「ム」の世界(-+・陰陽)を、それぞれに納めている存在だと感じます。
もう少し詳しく説明すると、
月読命は「月」の存在で、カタ世界での「物質」を作るエネルギーの根源となっているのではないでしょうか?
カタ世界において、「魂」(命)が生まれて、目に見える「形」となるまでには、月からの波動の影響で「揺らぎ」が起こり、その力が「マワリテメクル」の方向や回転を作り出し、地球上では「生命体」が発生するのではないでしょうか?
人(ヒト)で例えると、母体に「新しい命」が宿り、月の波動を受け「10ヶ月と10日」を駆けて「各臓器」と「肉体」が完成して、放出(「イ」の世界)されます。別件ですが、臓器の名前が「月」偏(へん)なのは、「月」のエネルギーが関係しているからではないでしょうか?
須佐之男命は、「-」と「+」、「陰」と「陽」のエネルギーが存在する場所に存在しており、地球環境では、地球の磁場を作り出す、地球内部の中心である「核」や、「魂」が引き離される宇宙空間の「ヴァンアレン帯」、生命体の中の「魂」に存在しているのでないかと考えます。
地球環境で図解すると、
このすべての空間が「天照大神」で、月が「月読命」の存在、地球内部やヴァンアレン帯などの「引き離し」「引き合い」の源に「須佐之男命」が存在し、それぞれの役割を果たしているのではないでしょうか?
また、それ以外の場所には「八百万の神々」が存在していると考えます。
余談ですが、「月」に人類が進出している事で、新しい「生命」の動きが起こっていると予想出来ます。ですから、今後の地球上の「生命体」は、これまでとは違う波動を受けるので、変化が起きるのではないかと考えます。
これも「マワリテメクル」の一つだと思います。
「カタカムナ」は、一方方向の平面ではなく、360度で放射した「カタ・カム・ナ」の世界ですので、「ヒト」で例えると、肉体全部の空間が「天照大神」で、各臓器が「月読命」、「魂」の中に「須佐之男命」が存在しており、これ以外の所(トコロ)に「八百万の神々」が存在していると考えます。
このことから、「神」(カミ)や「命」(ミコト)は、「すべての生命体」に存在している事が分かります。
それは、有形でも無形でもなく「現象」や「しくみ」を指すのではないでしょうか?
現在の私たちは、この感覚を忘れてしまっているので、「神社」や「物」を代替えにして、この「しくみ」を継承しているのではないでしょうか?
「神」(カミ)や「命」(ミコト)への伝達方法
そして、「カタカムナウタヒ」では、音の「ヒビキ」の周波を利用して、「カタ世界」から「カム世界」へのコミュニティー手段として、使われています。それが、カム世界を動かし、のちにカタ世界へ「有形」となって現れます。
神社では、「祝詞」の音の「ヒビキ」以外に、「太鼓の音」や「本坪鈴」(ほんつぼすず)や「大麻」(おおぬさ)や「紙垂」(しで)など、沢山の表現があります。
それぞれの意味や役割は別の機会にしますが、これらも全て、「神」(カミ)や「命」(ミコト)の居る世界への「伝達手段」として用いられています。
「現実の世界」(カタ)から「目に見えない世界」(カム)へ、思いを響かせ(アワヒビキ)、その思いが「カム世界で」動き、それを現実世界へ送り出し(アマウツシ)、現実となる。
これが「思いが伝わり現実となる」と言う「サイクル」(循環)ではないでしょうか?
現実の世界(カタ)において、自分の願いを叶えるには、目に見えない世界(カム)を動かす事が「必須」である事を学びます。
その「カム世界」を動かす「源」が、「天照大神」(八咫鏡)、「月読命」(フトマニ)、「須佐之男命」(ミクマリ)であり、これらは「しくみ」や「現象」の根源である事から、ウタヒでは「中心図象」、天皇家では「三種の神器」として、大切にされていると考えます。
この「三貴子」(みはしらのうずみこと)や「三種の神器」、「ヤタノカガミ」「フトマニ」「ミクマリ」を動かす行為が、「ウタヒ」や「神社参拝」、「神事」や「祭り事」などで、カム世界への「アワヒビキ」だと考えます。その行為によって、現実化(カタ)するのではないでしょうか?
「カタカムナ文献」は、学術的においては、「根拠」「証拠」など、科学的な「立証」は困難ですが、「天皇家」や「神社」を通して、現代にまで引き継がれていると、私は感じます。
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