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とあるハイライト2023

2023年もありがとうございました。

 ネパールの話は他でたくさん書いているので、今日は受験のことを書こうと思う。2023年いろいろありすぎたけど、その中でも最大級の出来事は大学院受験だと思う。

 23年の春、ネパールから帰ってきた僕は進路を決めかねていた。ずっと「大学を卒業したら世界をぶらぶら旅するんだ」と吹聴してきた僕の中に、なんと「大学院進学」という可能性が浮上してしまったのだ。なんとまあ、悲惨なことよ。ただでさえ金がないのに、大学院に??

 大学院といえば、どんなイメージをお持ちだろうか。知性の塊みたいな学生がメガネをクイッとあげて、多言語を使いこなして難しい話をずっとしている場所だと思っていないか?大学院を卒業したら大学教授になると思っていないか?

 そう思っていた場合あなたは大うつけ者である。文系の大学院に進学し、あろうことか博士まで(学位は学士→修士→博士とレベルアップする)やるなどという輩は、大抵は何かを拗らせている。研究にも生活にも金がかかるし、締め切りは常に近いし、夜ぐっすり眠れる日は少ない。先生に相談に行けばソクラテスくらいの意味わからんアドバイス貰うし、研究で結果を出したとて、研究職に就けるのはほんのわずかな人間である。
 その結果として、社会に出れない、研究者でもない、風呂にも入らず常にブツブツ何かを喋っている特級呪霊が誕生するのだ。

何?面白くするために僕が話を盛っている?

 愚か者めが。上述した説明はむしろ優しい方である。僕の知っている先生の院生時代のエピソードを例に挙げよう。

 先生がまだ若い頃、学会のために京都に赴いた。金がないので某京都大学の某学生寮に泊まったそうだ(200円くらい払えば一泊できたらしい)。先生は学会の前夜、遅くまで初対面の京大生と酒を飲んだ。しかし朝起きたら…身ぐるみを剥がされていたのだ。先生はその日の晩、寮の人間一人一人に話を聞いて回った。自分が昨夜どこにいて、何をしていたのかを聞き出し、その情報を繋ぎ合わせる探偵となったのだ。
 その夜、先生は随分と酔っ払い、いろんな学生と話して周り、しまいには床で寝たらしい。すると、寝ている先生に何人かの外国人が群がり、先生の来ていた服を脱がせて去っていったらしい。ちなみに、その外国人は寮の人間ではなかったそうだ。真実が明らかになると、先生は「謎が解明してよかった」と安堵し東京に戻った。


 このエピソードから分かるだろう。頭はいいけれど、大事なネジが飛んでしまっているのだ(先生すみませんでしたどうかこのnoteがバレませんように)。現代の日本で、見知らぬ外国人に身包みを剥がされることがあるか?いやない。その恐怖極まりない事実を知ってなお、先生にとってはそれがどうでもいいことだったことも驚きに値する。先生はただただ純粋に、「謎を解明したい」とだけ思っていて、その当事者である自分の安否など興味がないのだ。つまり大学院は、人間の大切なネジを吹っ飛ばす場所だと思ってもらえればいい。


 2023年春、僕はただただ英語を勉強していた。それは進学のためというよりも、自分の選択肢を増やすためだった。ただ英語力が上がればよかったので参考書の精読をやり、何度も同じ文献を和訳した結果として「梅毒にとても詳しくなる」という超キモい副産物まで手にした。



 4月と5月の2ヶ月間、ず〜〜〜〜〜〜〜っと英語だけを読んだ。朝7時半に大学に行き、英語。昼ごはんを食べて、夜9時まで英語。大学が閉まったらマックかファミレスに移動して、0時まで英語。1時に寝て、翌朝また7時に家を出る。その生活を丸2ヶ月やった。
 4月はACADEMIC( https://amzn.asia/d/4ZprOew )の中級と上級を全訳した。担当教員が「3周やるといいよ」と言ったので10周やった。全ての文章を、緻密に、正確に和訳することだけを求めて英語を読み続けた。
 5月は英語論文を和訳した。ここでは量を意識して、とにかくたくさんの論文を完全和訳した。担当教員が「3日で1本訳せたらすごいよ」と言ったので1日1本訳した。


 5月のある日、後輩のサブゼミのために論文を選んでいた時に事件は起こる。後輩のために、事例の面白い論文を探していると、とある先生の名前に辿り着いた。そしてその論文を読んだ時、私に雷が落ちた。
「な、な、なんじゃこりゃ!」
 その論文は、あまりにも面白かった。面白すぎた。今まで読んできたどんな漫画よりワクワクしたし、どんなミステリーよりドキドキした。心臓が鳴った。一語一語が凝縮された思考と熟練の技による表現、そして見事な論理構成。その瞬間、僕は決めた。「この先生の元へ行く」。

そう、一目惚れだったのだ。

 惚れたら全力一直線。僕はその先生のいる大学院を目指して受験勉強を開始した(そしたら受験科目に英語がなかった。ざけんな)。夏入試なのに(文系の大学院には夏入試と冬入試がある)卒論を見てくれると分かって、出願のために6月中旬から7月中旬の2ヶ月で卒論と研究計画書を書いた。ゔぁ〜〜〜っと書いた。

 ゼミの担当教員ともう1人の教員(オンシ)に見せに行き、コメントをもらい、書く。その繰り返し。毎日何千字も書き、何万字も消した。寝ても覚めても卒論の論理構成や表現を考え、書いた。4月からバイトを辞めていたから金もなく、1日4食のカップ麺で生きていた。とにかく書いて、消して、読んで、直して、書いて、コメントもらってを繰り返した。完成した卒論は6万字の大作だった。そして卒業論文と計画書が書き終わり、出願した次の日から試験勉強に移った。

 7月中旬からの試験勉強は、人類学・社会学の基礎概念を網羅的に理解し、学説史を大体頭に入れ、それを自分の言葉で説明できるようになることが目的だった。僕には鉄板の勉強法がある。それは「自分でテストを自作すること」である。参考書から必要になる部分をまとめ、自分でテスト化し、繰り返す。今回は論述試験に向けてだったので、まずは「問題から何を連想したらいいのかを定着させるためのテスト」をやった。

これだけで全部答えられる自分キモかった

こんな感じである。
それを定着させるために、100問以上あるテストを30周以上した。問題を見て答え、全問正解するまでやる。一問でも間違えたら最初からやり直し。全問正解したら逆からやる。
次は答えを見て問題を当てる。全問正解したら逆からやる。
連想キーワードが定着したら、論述の練習をした。

網羅的にやる
これも20周くらいやる

 僕は夢中で勉強をした。夢中で勉強をするために節約をしたし、全然ない貯金を崩した。そして「このままいけば合格ラインに乗るのでは…?」という8月下旬、僕はネパールに飛んだ。

誰もが驚いたし、僕の勉強量を知っている人ほどネパール行きを止めた。何度も冷静になれと諭された。

 しかし行った。海外ボランティアのディレクターの仕事を受け、調査を兼ねて渡航したのだ。僕がこの仕事にただならぬ思い入れがあるのは以前書いた。僕は、どうしても付いて行きたかったし、また彼らには僕が必要だった。

僕はどちらかの選択を迫られた。
「冬入試にして、ネパールに行くか。ディレクターを断って、夏入試に集中するか」

僕は決めた。
「ネパールに行き、ディレクターの仕事をこなし、帰ってきて入試。両方とる」
 受験勉強の最中、試験の直前まで海外にいる馬鹿などいるのだろうか。こんなの、悪い決断の典型的な例であろう。でも、だからこそ僕はそれを選ぶ必要があった。

 なぜなら、きっと大学院に入ったらもっとキツい状況にきっとなる。たくさんの締め切りに追われ、金もなく、心も体もキツい中で論文を書いていかなければならない。一つのことに集中できないほど多くのタスクがある。
僕はそれを超えてゆく。
 だから僕にとっては、ディレクターと勉強の両輪を回して入試に受かることが「最も意味のある受かり方」だったのだ。(受かり方を選べる分際なのかと聞かれれば、いいやそんなことはない。受験もちゃんとギリギリだ。)

 そうして僕はネパールに行き、朝6時から夜10時ごろまで仕事をし、明け方までホテルのロビーで勉強をして、少し寝てまた次の朝から動いた。
 ディレクターの仕事は多岐にわたる。日程や安全の管理、通訳、紹介、アテンド、ガイド、イレギュラーな事態への対応、ファシリテート、翌日の準備、報告など、本当にてんやわんやしている。カトマンズをバイクタクシーで飛び回り、息が切れるほど忙しかった。
 しかしそんなこと分かっていた。その上でなお決断したのだ。

僕は今までより一層、絶対に受かってやると思うようになった。

 海外ボランティアのディレクターの仕事は大変忙しく、世界でいちばん幸せな仕事である。子供の笑顔、メンバーの成長、小さな勇気、たくさんの気づき。良いディレクションの先に、みんなの輝かしい瞳がある。

 ボロ雑巾のようになりながら、僕は「やっぱりこの場所が好きだし、もっとボランティアの可能性を探究したい」「本当にこの仕事が大好きだし、だからこそ国際協力の新しい形を模索したい」と思うようになった。(仕事と言っても、僕の無計画と無頓着によってまだ全然赤字でるけど)

 仕事と勉強の両輪を選んだからこそ、互いに意味を与え合う好循環が生まれたのだ。

 そして受験の前日に京都に飛んで帰り、その日の夜に四条のブックオフで受験用の靴を中古で買い、当日を迎えた。

9月10日、試験当日。
 「それでは試験を始めてください」のアナウンスから「試験終了です」と言われるまで、ひたすら文字を書いた。誇張ではない。ひたすらに書いたのだ。とにかく知識は入っている前提で、瞬発的に考える力と書く力を試されていた。
 最初のテストは90分で400字の論述を3問と1500字の論述を1問。次のテストは60分で1000字を2問。ほんっとうに時間が足りないテストなのだ。とにかく「解き終わらないテスト」なのだ。事前に何度練習していても、問題との相性もある。今更緊張はしない、というかしてる暇がないくらい忙しい。読み返す暇もない。マジで一発勝負。試験会場にはエミューの大群が走り去る時の足音くらいのうるささで、カリカリカリカリという音が聞こえていた。
 論述試験が終わったと思えば、最後は面接。教授陣3人を前に、自分の研究計画や関心を話した。ほとんど計画書の内容についてだったと思う。研究以外のことは聞かれなかった。「伝われ、伝われ〜!」と思いながら話した。自分が研究にかける想い、ボランティアの可能性を開きたい、ネパールの子供達にもっと学びの面白さを伝えたい、その両者が交わる場で研究がしたい。今よりももっと、世界を居心地のいい場所にしたいんだ。心に火を焚きながら頭を冷まして、たくさん話した。

「面接は以上になります。お疲れ様でした」

 教室を出て、荷物を取り、バスを待ち、バスが来て、バスに乗った。椅子に座った瞬間、4月から今まで張り詰めていた何本もの糸がぷつりと切れた音がした。
 全身の力が抜け、澱んでいた空気が口から勢いよく抜けて、溶けるアイスのように身体を預けた。

やりきった。終わった。本当に全部を出しきった。疲れた。
達成感に満ち溢れ、もう試験の結果とかは正直どうでもよくなっていた。


後日、結果が発表された。


 これで僕の大学院受験は終わった。2023年は英語、卒論、勉強、ネパール、試験。全てが詰まった半年間だった。

 ここまで苦労して、僕は地獄の扉を叩いたのだ。これからは入試以上の大変なことが山ほど待っているし、多分何回かはやらかすと思う。でもきっと大丈夫だと思えるくらい、頑張った2023年の入試でした。

応援してくれたみんな、本当にありがとう。
これからもよろしくね。


どうも。 サッと読んでクスッと笑えるようなブログを目指して書いています。