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先生という職業の人格について

今僕が話したいと思っていることで、僕について常に短な事柄として僕が語れることで、先生という存在がいます。先生とはなんでしょうか。おそらくほとんどの人が先生は先生であって、それ以外何もないのでは、と思うかも知れません。では違う方面から先生を考えてみましょう。先生という人は、人間ですか?それとも人格ですか?よくわからない質問かも知れません。では、質問を変えましょう。学校の中で生徒がシャツを出して歩いているとします。そしてそれを先生はシャツを入れなさいというふうにいいますよね。それは先生だからです。ではただ道を通りかかったおじさんがシャツを入れなさい!というふうに言ってくるでしょうか?いや、質問を変えましょう。ある程度知り合っているおじさんとあったとき、そのおじさんはシャツを入れなさい!というふうに言ってくるでしょうか?いいえ、そんなはずはありません。なぜならおじさんはあなたのシャツを入れなさいと叱る権利を持っていないのです。少なくともおじさん自身はそう思っているのです。では、そのおじさんが先生となり、あなたののシャツが気に入らない時、どうしますか?そうです、おじさんはシャツを入れなさい!というふうにいいます。これがどういうことを意味するか。それはその先生という人格がそのおじさんに取り付いたことにより、おじさんはシャツを入れることを強制する力、言い換えれば権利を手に入れたことになります。これが最初に質問した、人格か、それとも人間か、という質問です。そして、これらを考えたときに先生というものは人格であるというふうに僕は考えています。先生というものはただの職業ですから。人格とはなんなのかよくわからないと思います。では、想像してみてください。先生を思い浮かべてみてください。おそらくボヤッとした先生のなにか眼鏡をかけたような像が浮かぶことでしょう。それがあなたが先生という虚像に対して持つイメージです。そして、それらの像はおそらくほとんどの人が同じように共通で似たり寄ったりの像を持っています。誰しもが先生は何かにつけて注意してくるものだ、とか雑談をしていたら注意してくるものだ、とか宿題をしてこなかったら怒るものだ、とか思っているわけです。そしてそれらの像をみんなで共通で持っています。そしてそれはほとんど日本中どこを言っても(少なくとも日本列島の中でいえば)ほとんど同じような像をほとんど皆が持っているのだと思います。そしてその先生像、というもの、それが人格です。一人ひとりの中の先生像も人格ですが、日本中の先生像を平均化したものもまた人格です。そしてそれらは日本人の先生というものを頑固に縛り付けるものでもあります。そしてまだ先生という職業になる前に先生ではなかった人は、その日本中の先生の平均の像をまず思い浮かべ、そしてそれらと自分を照らし合わせた上で、ついには本当の先生というものが誕生します。その先生は実際に名前のある先生のことです。そしてそれらをちゃんと分けなければいけません。なぜなら実際に働いている先生自体もその先生という人格に乗っ取られていますし、それらが正しいというふうに常に信じているわけです。
 そこで一つ考えてみましょう。先ほど説明しましたちょっと仲の良いおじさんここではAおじさんとしましょう。そのAおじさんは先生という人格を持つ前はただのおじさんでしたが、先生という人格を取り入れたらもうそれはA先生になっています。そして、A先生は先ほど言ったような先生の人格にとりつかれ、そして先生の人格を疑ったりする事はありません。なぜなら全世界でその先生像は共通のものですし、それらを疑う自分の方が圧倒的にマイノリティーだからです。そして、叱ったり、怒ったり、たまには褒めたりして生徒を教育する、ということを先生の権利を持って行うわけです。それが僕の考える先生です。
 では、次は生徒について考えてみましょう。生徒は人間ですか?それとも人格ですか?これについて迷う人もいると思うし、はたまたはっきりと答えを持つ人もいるでしょう。ここでの僕の答えは生徒は人間です。生徒は人格ではありません。もちろん生徒は勉強をするべきである、そして生徒は先生の話をおとなしく聞くべきであるという人格を持っている人もいるでしょう。はたまた、生徒というものは無条件に興味のあることないこと関係なく勉強をするべきというふうに思っている人もいるかも知れません。しかし、それは職業ではありませんし、それによってお金を稼ぐこともありません。そしてその生徒であるという人格を持つか持たないかは個々の完全な自由です。なぜかというと、人というものは必ず学生という道を通り社会人になりますよね。そして社会人になってどの人格を取り込むか、はたまた取り込まないのかを選択するのです。その過程が学生であり、どの人格を手に入れたいのか、もしくは自分の人格のみで生きていくのか、それらを考える時間とも言えるわけです。なので、生徒に対して、あなたは生徒の人格をちゃんと持ち、そして生徒らしくいなさい、というふうに言われたときにそれに対して私は生徒ではあるが、生徒の人格を信じていないのでそれについて何一つ従う理由はない、というふうに言い返すことができますし、その権利を持っているわけです。なぜなら生徒というものは生徒という人格を持たずして、生徒でいることができるからです。いわゆる生徒は単純な人間として存在を許される存在なのです。
 そしてここでもう一度先生に戻りましょう。先生は先生という人格を捨ててただの人間として働くことが許されるでしょうか?いいえ、それが許されないのです。少なくとも日本において、人間であることを許さないという風習があるのです。だから先生は先生という虚像に縛られながら、生徒を怒ったりするわけです。なぜなら先生という人格に取り憑かれているし、既に純粋なその人ではないように振る舞うことにある意味酔っているからです。ここで僕は先生を否定したいわけではありません。しかし僕は先生という人格を先生に共有することに関しては否定したいと思います。そして同じくして、生徒を生徒の人格で縛ろうとすることに関しても否定したいと思います。それはなぜか。それはそれぞれの人間の個性が死んでしまうからです。どうでしょうか?先生はみんな同じように見えるんじゃないでしょうか?少なくともみんな先生に見えるはずです。どうでしょうか?生徒はみんな生徒に見えるんじゃないでしょうか?そうです、みんな誰一人として生徒に見えない人なんていません。なぜなら制服も着せられていますしね。もしもその先生像、生徒像を捨ててしまった時に学校が壊れてしまうのではないかというふうに考える人がいるかも知れません。果たしてそうでしょうか?少なくともそれを証明した証拠はあるのでしょうか?おそらくそれらについて証明できるほど確かな例をまだ日本は所有していないと思います。先生が生徒らしくいてはいけないというのは理解できます。なぜなら先生はお金をもらって働いていますから。では、生徒は生徒らしくいなければいけないのでしょうか?決してそうではありません。生徒はお金をもらっていませんし、わざわざ生徒の役を演じる必要は何一つないのです。生徒で先生らしく振る舞うことだってできるでしょうし、なんなら先生に対して生徒が教えるなんて構図があっても一つもおかしくありません。しかし、これが実現しないのです。僕は決してそれらを実現したくてこのように言っているわけではありません。しかし、それぞれがそれぞれ人間らしさを失い、職業や、虚像、人格に縛られて生きていて、それで生き方の多様性を失っているということを言いたいだけなのです。
 しかし、これを聞いて、もし生徒は生徒像を捨てたとき、どうなるでしょうか?僕は生徒を完全に捨てる事はできないと思うし、それらができるのはほんの一部だとは思いますが、それらができたとしましょう。どうなるでしょうか?次は何をすればいいのか、そして自分はなんなのかわからなくなるのです。なぜなら生徒だった自分がただの人間に戻ってしまったからです。これまで生徒だった時、生徒は勉強をするべきだ、というふうに言われてきましたが、それも捨てたとしましょう。生徒である限りは無条件に勉強を強いられますがそれを捨てるのです。そしてただの人間に戻った時、人は自分のことを見失ってしまうのです。なぜなら自分の人間という部分を何一つ知らないからです。何一つ自分の人間の部分に対して突き止めようとしてこなかったし、何一つ苦労したこともなかったでしょう。そして、迷った挙句、どうなるか。次は自分の人間の部分に何かを求めるようになるでしょう。生徒という身包みを剥がした後、じゃあ自分はなんなのかと問われた時に自分は何者なのかを問うようになるでしょう。そこでもしかしたら根っからの生徒だった、僕は人間の部分でも生徒でした、という人もいるかも知れません。そのような人は生涯を通じて生徒であり続けるでしょう。実際的な意味ではなく、精神的な意味でです。そしてそこであらゆることが見つかります。そしてそれらを探すときが一番辛いでしょう。なぜならば自分は何者でもないのでは?というふうに途方に暮れてしまうときが幾度なくやってくるからです。そして、その度に自分は何者かということの質問の意味すらもわからなくなり、もがくでしょう。しかし、それでも探し続けるのです。それについては具体的な行動はありません。ただ自分らしく自分の気の赴くままに行動していけばそれは見つかるものです。決してその行動に生徒の人格や、他のあらゆる時に植え付けられた洗脳を持ってきてはいけません。自分の人間の部分の純粋な部分のみに応じそうして行動すれば、自分が本当は何者だったのか、ということに気づくはずです。そしてその時に人は何かピンとくるものを感じ、そしてこれが自分なのだ、ということに気づくはずです。そしてそれからそのために必要な分だけ勉強をすればいいのです。無条件に勉強をする必要は何一つありませんし、強制されてそれに従う理由はありません。
 しかし、これらの工程が辛そうに感じる人は多いでしょう。そんなの面倒くさいというふうに思う人もいるでしょう。確かに辛くて、苦しいことです。しかし、もしこれらを一生することがなかったらどうでしょうか?その人は一生自分以外の何者かの人格によって生きることになります。それは先生の人格かも知れないし、親の人格かも知れないし、はたまた生徒の人格かも知れません。それはその人次第でしょう。そして、それが人格ではなく、その人の人間の部分ならいいのですが、人格なら人は晩年にそれを悟り一生を後悔するはずです。そして、あの頃必死に自分自身が何者であるかをちゃんと問いただしてくればよかったと後悔するものです。どうですか?少しはそれらを考える気になりましたか?それらを見つけることができたらそれはもうあなたそのものです。あなたはそのまま思うがままに自分の思うように生きればいい、そのあとはきっとそれなりに辛いこと悲しいこともあるでしょうが、人格に取り憑かれていた時には絶対に感じられなかった使命感や、やる気を感じることができるのではないかと思います。ではでは、ぜひ人格を捨て、自分探しをしてみてください!