朽ちていくことへのささやかな抵抗と自転車

時間経過が正確に認識できなくなってから10年くらいが経つ。今日は昨日の続きにあり、今日の次は明日が来る。明日から数えて昨日は2日前であり、24時間経過すると1日が過ぎる。言葉で書いたものをそのように理解ことは出来ても体感では1年前の4/3も2021年の4/3である今日も等価で、1年前のイベントを経過してしまった過去であるということを以前のように正しく認識できておらず乖離している。昨日の出来事をはるか遠くに感じるかと思えば、高校生時代のことをつい昨日のように感じたりすることがある。幾度となく直そうとするも今の所ただの徒労に終わっている。幼少期に時計を見ながら数えた10分間と、大人になってから数える10分の主観的な体感時間が違うのに少し似ているかもしれない。前者はもう10分経ったかと時計を見返してもまだ1分半程度しか経っておらず、もうしばらく時計を見ずにしびれを切らしたところで時計に目をやると3分をややすぎたところだと行った焦れったい経験をしたことかと思う。一方で後者はTwitterでも開いていれば一瞬で溶け去る。この10分間は客観的には等価だが、主観的には全く異なる。

自己を正しく認識できなくなってから10年くらいが経つ。時折発生するライフイベント級の事故により悪化することはあれどよくなることはない。Yoshino Yoshikawaというハンドルネームを設定して音楽をリリースしていたらしい。これからもリリースする予定は立てているも、リリースをする予定を立てたことが記憶から消え去ってしまっても思い出せるように、リリースをすることを手伝ってくれる人に伝えて彼らに覚えてもらっている。記憶の外部化をすることで、計画を立てたことが疑わしくなってしまってもリマインドしてもらうことで「ああ、確かに立てたのだな。」と思い出すことが出来るようになるので少しずつ進んでいる。

一方でリスナーに呼びかけて、消費を促して、商売をするというような自己を正確に認識しているからこそ出来るコミュニケーションを取るのが難しい。そんなことをしたら自分と他人をどのように区別すればいいのか遂にわからなくなってしまう。それはとても恐ろしいことだ。奥多摩湖は今日も東京都の最西端にあり、明日もおそらく同じ場所にある。湖は自ら集客活動をしない。ただ美しく悲しい歴史と共に今日もそこにある。そこに惹きつけられてしまった私は自分の足と銀輪で足繁く通うことになる。

リリースすることがあったら、きっとインターネットのどこか手の届きやすい場所に置いておくので、聴きたい人は覗きに来てくれると嬉しい。美しいと思うものをそこに置いておくので。同じように美しいと思ってくれる人がいたらそれはもう同好の士だ。あなたは私と同じ視点にいるわけだから、広告の文法はいらない。美は読み出すものではなくただそこにある。

最後にアルバムをリリースしたのは2019年の夏。数字の上では数千回は再生されているらしいけれど聴いてくれている人の顔が見えない。コロナ禍を経て、クラブにもついにこの1年、1度も行かなかった。避けざるを得ない事情があるのでおそらく今後も終息するまで行けないだろう。場による刺激を受けて更新されない記憶もゆっくりと崩壊しつつある今、ダンスミュージックとそれを取り巻く文化が好きだったのかよくわからなくなってしまっている。おそらく好きだったのだろうとは推測できる。月1程度で見知っている音楽実践者達とオフで会える有り難みを以前の私はよく理解できていなかった。ただ、リズムの疎密の波<グルーヴ>が織り成す快楽は今でも好きだ。

ライブストリーミング配信を観るのはどうも苦手だ。モニターの向こう、カメラの向こうで行われている空間の臨場感を自分の脳で逐一再構成しないといけない。変性意識状態にダイブする機能が壊れつつある私にとってはとても難しい。時間は拘束されるのに、意識まではロックアップしてくれない。映画も家で見るのは苦手だ。劇場という、時間と意識を強制的にロックアップして変性意識状態に持っていてくれるのをサポートしてくれる装置は大変ありがたい。物理空間にはなく情報空間にだけあるものに、まるでそれが物理空間に存在しているかのような臨場感を主観的に感じられる人をいいなと思ったりもする。その点自然の臨場感は圧倒的だ。五感で感じられる美が身体全てに飛び込んできて情報空間に意識を向ける隙を与えてくれない。良いことばかりではない。怪我をしたとしても全てリアルだ。神様の気分次第で生きるも死ぬも全てが決まる緊張感がある。ブレーキとハンドル操作を楽器演奏よりも正確にシーケンスさせることくらいしか人間には出来ない。

ZOOMによるオンラインCubase講師業と、Clubhouseを導入した際にかつての知人友人達と話せた体験はとてもよかった。受講者が週を追うごとにCubaseの操作を覚えていき使いこなせるようになるのを見ることは植物の成長を見るような喜びがある。枯れかけていたパキラが春になり葉をつけた生命力は美しい。Clubhouseの向こう側にいた旧友は私がそのほとんどを失ってしまった自己をかつてのまま保存してくれているので、一時的に私もそれを共有することには安堵感があった。通話が終わってから、日を追うごとに徐々に消えて行ってしまったが。

音楽の美や音を聴くことによる気分の変化には興味があれど、音を媒介とした人の繋がりやメッセージの共有、コミュニティの形成、そういったことの商用利用などには遂に興味が持てなかった。注記しておくとマネーはあればあるだけ便利だと思う一方でそれに対して好きか嫌いかといった感情はない。ただ、音楽の美が様々なインセンティブでねじ曲がっていくことについてはそれを憎んでいるとさえ言える。

日々緩やかに壊れていく脳機能の中で遂に音楽を作る機能にすら障害が出始めているのを少し恐ろしく思いつつ、たまに機能が戻った時に慌てて美しいと思うものを書き留めるようにしている。壊れていく心身を抱えつつ、自転車に乗り、山に登るのは私のささやかな抵抗なのだ。まだ私が体験していない美を残された時間で一つでも多く感じておきたい。



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