波乱の人生〜試練〜

校区外の小学校に通っていた息子は、中学を校区にするかそれ以外か選ぶ事ができた。
6年間一緒だった体格のいい男の子と別の学校に行きたい。という理由だけで校区の中学校へ進学を決めた。
私も息子も不安だった。6年間1クラスで過ごしてきたのだ。突然見ず知らずの同級生達の中に入って行けるだろうか。知っている人は一人も居ない。一人も居ないのだ。
中学校の制服を買いに行ったり順調に準備が始まった。水泳に通っていたので4泳法もマスターして大会にも出場しアクティブに過ごしていた。(成績は別として)

その年は大雪だった。朝、家の前の除雪をするのが日課だった私は、臨月になっても運動の為に楽しく雪かきをしていた。いや、雪かきが趣味だった。
スノーダンプ(通称ママさんダンプ)と呼ばれる一輪車の手押し車の車が無い様な物に雪を乗せて雪捨て場へ運んだりするのだが、それを片付けようと壁に立て掛けたのが勢いが良過ぎて跳ね返ってお腹に当った。と同時にパンッと小さく聞こえた気がした。

暫く様子を見ていたが、予め当てておいたパットが微妙に濡れていた。陣痛はまだ無い。
2歳の娘も居る事だし、早めの行動が安心だろうという事で、占い師にこの事を伝え家族みんなでどこかへ遊びに行くかの様に病院へ向った。
息子にとって出産に立ち会うのは生まれて初めての経験だった。娘2が生まれたときは、夜中だったのとスピード出産だったので、息子が朝起きた時には妹が産まれていたのだ。

夜になってようやく陣痛が始まった。最後の出産になると思われる今回の出産には、自宅で家族に見守られながら出産したい!という願いがあったが、息子の時の異常分娩経験者は”リスク妊婦”と言われ、助産院で受け入れてもらえないのだ。そもそも、自宅出産の望みが生まれたのが妊娠後期に入った頃で、時すでに遅し。
そうしてNICUがある総合病院で出産する事になった。

バースプランと言うものには、産婦の理想の出産を書く事ができる。
私は、自由な体制での分娩、促進剤は使わない、生まれてくる所を見たい。と言う内容を書いた。なんと、その全てが叶えられた。
仰向け以外の態勢の方が楽なのかと思ってバランスボールなどを用意してもらったが、腰が砕けそうで自力で起きていられず、結局仰向けで寝ているのが一番楽だった。

私の陣痛が強くなるのと同じくして、息子が腹痛を発症。まさかの同調体質w
廊下で待っていたが、立って居られず床でうずくまっていた。意図せず一緒に出産に挑んだ形になってしまった。かわいそうに、、、。

19:20 元気な息子2が誕生。2914g 分娩時間:3時間半

産後1週間で息子の卒業式に参列した。もちろん、息子2を連れて。生まれたてホヤホヤだが、4人目ともなるとこんな荒技が出来てしまうんだな。荒技を使ったのはその時だけ。高齢出産で4人目だったので、産後1ヶ月ほぼ寝て過ごした。
家事全般+娘2の遊び相手を占い師に完全に任せた。それに、産後ケアとして毎週ボディメンテナンスをしてくれる友人が家に来てくれていた。お陰で高齢出産でも産後の体調は過去最高に良かった。

息子2がハイハイを始めた頃、娘2が3歳児健診で腹部に異常を認められ、近くの総合病院を紹介された。外来診察で娘の腹部を触診した医師に「気付いた時にすぐ来て欲しかった」と残念な顔で言われ、これはただ事ではないと察知した。腹部エコーを2人の技師が見ながら何やらコソコソ話しているところに、先ほどの医師が入ってきてエコーの結果を待てないと言う様にその場で技師に説明を受けていた。

再び外来の診察室に呼ばれた私たちは、病名を教えてもらえると思っていた。
医師から出た言葉は、「すぐ北大病院に行って、検査受けれる様に今電話しておきましたから、これからすぐに行ってください。」私と占い師は絶句した。

北大病院と言えば、特殊な病気とか一般の病院では手に負えない病気の方を受け入れる所と言うイメージ(実際にそうだけど)だったので、北大病院を紹介されたと言う事は、娘2の病状は明らかに悪いと言われているのと同じだった。

医師の言う通りそのまま北大病院へ行けば、きっとそのまま入院になるだろうから、病院の近くに住んでいた私の父の家へ寄って、事の次第の報告と、心を落ち着ける為お茶を飲ませてもらった。
ある程度落ちついて、それでも病院の受付が終わらない内に着く様に、そして、娘の病気が何なのか病状はどうなっているのかを早く知りたいと言う気持ちで、早々に父の家を出た。

もう一度エコーやレントゲンを撮った後、私たちは診察室に呼ばれた。
緊張と恐怖で手先が冷たくなっていたが、娘2に悟られまいと平常を装い、娘2と会話する口調は穏やかにいつもの様に話す様努力していた。

病理検査をして見なければはっきりした病名は分からないが、腹部腫瘤があり、それは左の腎臓を右腹部へ押しやる程の大きさだと言う。推定1kg。3歳でこのサイズの腫瘤は多分悪性ではないでしょうと言う言葉が、ピンと張った今にも切れそうな糸を緩めてくれた。私たちは声にならない声で、顔を見合わせホッとした。

娘は1週間の検査入院をする事になり、占い師が付き添いする事になった。
点滴の針を刺す時、処置室で数人がかかりで押さえつけられたのがあまりに怖過ぎて、その日の夜突発性の高熱を出し、その後体を拘束されるとパニックを起こす様になってしまった。その恐怖は4年経った今でも癒えていない。

無事に検査が終わり、数日の一時帰宅の後すぐに手術の日が来た。
初めての入院、初めての開腹手術が3歳になったばかりの小さな身体で経験しなくてはいけないなんて、居た堪れない気持ちだった。切開部分にマーカーが付けられていた。それは肋骨に沿って脇腹まで約20cmもあった。手術は明日なのに、すでに私の心は痛かった。
これから自分の身に何が起こるか知らずに、娘がいつもの可愛い笑顔を見せる度に、この笑顔が最後になるかもしれないと、泣きそうになるのを我慢した。

翌朝8時半、手術室前には手術を受ける患者が強ばった面持ちで椅子に並んでいた。
そこへ”森のくまさん”を歌いながら登場した娘は、いつもの笑顔で手術室の看護師と手を繋いで楽しそうに手術室へ入っていった。
『これが娘の最後の姿になるかもしれない』と言う不吉な思いを振り切る様に、私は勢いをつけてその場を離れた。

朝一番に手術室に入った娘がそこを出て来たのは午後2時を過ぎていた。看護師が呼びに来た。
「そろそろ麻酔から覚めるので、迎えに来てください」
よかった!無事に終わったんだ!小走りで手術室へ到着した私の目には、看護師に抱っこされてべそをかいている娘の姿だった。
「生きてる!!また娘に会えた!」
私は駆け寄ったが、今さっきまでお腹を大きく切開していた娘を抱っこするのが怖くなって手が止まってしまった。
「だ、大丈夫なんですか?このまま私が抱っこしていいんですか?!」
娘のお腹からは、血を抜くドレーンという管が出ていたので、点滴やドレーンの管を絡まない様に看護師に捌いてもらい、5時間の大手術を乗り越えて娘は私の腕の中へ戻って来てくれた。


波乱の人生〜最大の試練〜へつづく

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