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【百年ニュース】1921(大正10)10月11日(火) 九段精華高等女学校長の寺田勇吉が死去,享年68。1853(嘉永6)幕臣の生まれ。幕末は渋沢喜作(成一郎)の彰義隊に加わり上野戦争を戦った。明治政府で文部官僚に。1902(明治35)高等商業学校(現一橋大学)校長。1905(明治38)精華学校開校。日本の教育発展に尽す。

九段精華高等女学校長の寺田勇吉てらだゆうきちが死去しました。享年は68歳でした。1853(嘉永6)年に幕臣の寺田高吉の次男として江戸城下四谷で生まれました。

幕末は渋沢喜作(成一郎)の彰義隊に加わり上野戦争では新政府軍を相手に奮戦したとされています。維新後は大学南校や開成学校において主にドイツ語を学び、明治政府に出仕して統計事務の管理などをしていました。のち文部官僚に転じて、東京外国語学校御用係を経て、東京帝国大学や第一高等中学などで教鞭をとりました。

さらに欧米諸国への視察を命じられ、帰朝後は文部省参事官、大臣官房文書課長などを歴任したあと、1902(明治35)年に高等商業学校(現一橋大学)校長に就任しました。そして1905(明治38)年に精華学校を創設、日本の教育発展に尽しました。

ところで若き日の寺田勇吉が参加した彰義隊は、1868(慶応4)年の上野戦争でわずか1日で敗北しました。明治新政府の宣伝により、彰義隊のあっけない崩壊は新政府軍のアームストロング砲の威力によるものとされていました。しかし近年の研究では、実際の彰義隊は江戸市民の熱狂的エールのもと善戦したとされています。新政府軍は料亭2階からの山王台砲兵を狙撃できることを偶然発見し、これが勝因だったとの研究があります。

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寺田勇吉

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