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【百年ニュース】1921(大正10)11月26日(土) 伊東知也が死去,享年48。酒田市出身。父は医師伊東清基。東京専門学校(早稲田大学)卒。のち札幌の露清学校で中国語とロシア語を習得。犬養毅,杉浦重剛,頭山満らと共に大陸進出を主張。三宅雪嶺が主宰する『日本及日本人』記者を経て衆議院議員を三期務めた。

1921(大正10)11月26日(土) 政治家の伊東知也いとうともやが死去しました。享年48歳の早い死でありました。

1873(明治6)年4月10日、伊東知也は地元の著名な内科医伊東清基いとうせいきの長男として山形県酒田市本町六丁目で生まれました。父の伊東清基はもともと仙台藩士諏訪主水の三男でしたが、江戸で蘭学を学び、シーボルトの弟子として著名な伊東玄朴いとうげんぼく伊東朴斎いとうぼくさいのもとで医学を学び、1868(明治元)年に伊東朴斎が鶴岡ついで酒田に移住し開業するのに付き従って、養子とななった人物です。

当時はたびたびコレラが流行し多くの死者を出していましたが、1879(明治12)年に酒田市と飽海郡あくみぐんでコレラが大流行し273人の死者を出す事態になると、酒田市の大浜海岸に避病院(伝染病の隔離病舎)が建設され、伊東清基が初代院長となりました。

1895(明治28)年にも酒田でコレラが大流行しますが、伊東清基自身もコレラに感染し同年10月3日に死去しました。享年は56歳。酒田市相生町の古刹海晏寺かいあんじで行われた葬儀には多くの市民がかけつけたと言います。家督は22歳の長男の伊東知也が相続しました。

伊東知也は東京専門学校(早稲田大学)を卒業後、札幌の露清学校で中国語とロシア語を習得したと言います。のち三宅雪嶺が主宰する雑誌『日本及日本人』(政教社)の記者となりました。この雑誌は陸羯南の『日本新聞』および政治評論誌『日本人』が合体した後継雑誌として、1907(明治40)年に創刊されたものです。主筆の三宅雪嶺のほか、志賀重昂や杉浦重剛が中心となって国粋主義の立場を主張しました。

この縁から伊東知也は国粋主義的な思想に共鳴するとともに、犬養毅、杉浦重剛、頭山満らと行動をともにするようになります。1909(明治42)年10月18日に東京谷中の全生庵で開催された玄洋社の政治運動家(テロリスト)来島恒喜の没後20年の追悼会では、テロの被害者大隈重信の代理として出席し大隈のメッセージを代読しました。この会は2年後の辛亥革命で活躍する黄興や宋教仁も出席していました。

1911(明治44)年6月4日に国粋主義グループらが民間人による軍事研究会を結成しました。座長は元衆議院議員の山下千代雄やましたちよお。ここで伊藤知也は幹事を務めます。他に幹事は萱野長知かやのながとも、また評議員には林包明はやしかねあき、小川運平(中国研究家)、古島一雄(のち政界の指南番)、青地雄太郎あおちゆうたろう(藤枝駅前に銅像)、佐々木安五郎やすごろう照山(蒙古王)、田中弘之(浪人会)らが顔を連ねました。

1911(明治44)年10月10日に始まる辛亥革命では頭山満・内田洋平ら日本の国粋主義者は一貫して革命派を支援しました。翌年袁世凱が孫文に代わり臨時大総統に就任、事態が変質していったあとも、革命派をバックアップしようと試みました。1912(明治45)年3月10日に松本楼で革命援助を決議した浪人会の会合では、伊藤知也が開会の辞を述べています。

そして1912(明治45)年4月~5月の第11回衆議院選挙の山形県の郡部選挙区から立憲国民党候補として出馬します。当時の選挙は大選挙区制で同選挙区は定員6名に対し、国民党から3名、政友会から4名が立候補しました。三宅雪嶺、茅原華山、黒岩涙香(周六)ら著名なジャーナリストが伊東の選挙応援のため地元の庄内に入り、たいへんな盛況となりました。これらの運動の結果、この選挙区でトップ当選を果たしました。

立憲国民党内で伊東知也は演説上手な代議士としてすぐにメディアが注目することとなり、いくつかの報道で新聞紙上をにぎわしました。1913(大正2)年12月には同じ選挙区から当選した国民党代議士の先輩、斎藤三郎右衛門の葬儀からの帰路、蒸気船で最上川を下り、宿泊予定の清川の岸壁で下船しようとしたところ、足を滑らせフロックコートと長靴のまま極寒の急流に転落、あやうく落命しかけました。

翌1914(大正3)年1月21日、山本権兵衛首相の施政方針演説で第31回帝国議会が始まりますが、そのまさに同じ日にベルリン発のロイター外電でシーメンス社の元社員カール・リヒテルの裁判で日本海軍将校への贈賄が発覚したと報じられ(シーメンス事件)、国会は大荒れになります。2月10日の衆議院では立憲同志会・立憲国民党・中正会の野党三党が内閣弾劾決議案を上程しますが164対205で否決され、伊東知也は興奮のあまり卒倒し控室に運び込まれました。

この日は日比谷公園で内閣弾劾国民会議が開かれていましたが、興奮した群衆が国会議事堂を包囲し、構内突入を試み、警察隊だけではなく軍隊も主導して鎮圧する騒ぎとなります。警官の一部は抜刀し、殺到する民衆や記者を斬りつけたとされています。伊東が議場で興奮し卒倒するような雰囲気が国会の外部を包んでいたと言えるでしょう。3月24日に山本権兵衛内閣は総辞職しました。

1919(大正8年)年1月21日に普通選挙期成同盟会が再興され、2月9日の神田青年会館での演説会の盛り上がりに続いて、3月1日には主催者発表1万人の大規模なデモが実施されました。この情勢のなか伊藤知也は国民党内において普通選挙の急進的な追及を主張します。党内対立のすえ3月12日には、伊東のほか湯浅凡平、神谷卓男、大堀孝、村松恒一郎、高松正道および佐々木安五郎の7名が除名処分となりました。この7名は純正国民党を立ち上げます。

翌1920(大正9)年5月10日投票の第14回衆議院議員選挙では選挙区制度が大選挙区から小選挙区へと変わり、少数政党には極めて不利な制度となりました。伊東和也は酒田を地盤に出馬を模索しましたが叶いませんでした。このころには病気にも悩まされていたようです。

同年11月4日午後6時より築地精養軒において野党が一致して普通選挙の実現を目指す「政界革新普選同盟会」が発会しました。憲政会からは武富時敏、島田三郎(沼南)、尾崎行雄(咢堂がくどう)ら、国民党からは犬養毅(木堂)、浜田国松、関直彦ら、無所属からは林田亀太郎(雲梯)、押川方義まさよし、松本君平らが出席しました。総勢で150名程が集まりました。

この日の会議ではまず無所属の松本君平が発起人を代表して発会に到るまでの経緯を説明したあと、座長として国民党の関直彦を推薦したうえ、宣言綱領案の審議を諮りました。ここまでは予定されていた議事進行であったのですが、突然「座長!」という大音声とともに伊東和也がフロアから発言し、普選を本気で目指すのであれば参加者が脱党して参加するか両野党が解党すべきだと主張し、集まった一同を驚かせました。

松本君平がこの質問に答えて、今回の宣言綱領は理想を掲げて現在の政党を改善するものだと説明しますが、伊東和也はなおも追及して、政党改造の手本を天下に示すため現在の政党を解散し新団体を組織すべきだと述べます。国民党党首の犬養毅は癇癪を起したとされています。

その日から丸1年後の1921(大正10)年11月26日、伊東和也は48歳で死去しました。葬儀は11月30日に愛宕の萬年山青松寺せいしょうじで行われました。友人総代として頭山満(玄洋社)、川島浪速(大陸浪人)、内田良平(黒龍会)、井上亀六(政教社)らが名を連ねました。

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