【百年ニュース】1921(大正10)12月24日(土) 海軍大将の三須宗太郎が死去,享年66。日本海海戦の英雄のひとり。東郷平八郎直轄の第1戦隊司令官となり「日進」に乗艦。同艦は旗艦「三笠」に次ぐ激しい砲撃を受け幹部が多数戦死。三須も間近に着弾した砲弾の破片で左目を失い,以後「独眼竜」と呼ばれた。
日本海海戦の英雄のひとり、海軍大将の三須宗太郎が、代々幡町の自宅で病死しました。享年は66歳でした。
1855(安政2)年に三須宗太郎は彦根藩士三須熊次郎の長男として誕生しました。宗太郎誕生当時の大老は彦根藩士の井伊直弼。父熊次郎は主君井伊直弼から江戸湾防衛を命じられ、事前に戒名「宗観院」を付けてもらうなど死を覚悟して臨みます。長男宗太郎の宗の字はこの戒名に由来します。
1872(明治4)年、三須宗太郎は16歳で海軍兵学寮に入ります。同期に会津出身の海軍大将出羽重遠がいますが、薩摩藩や佐賀藩の出身者が多い海軍兵学寮のなかで、当時にあっては三須や出羽など朝敵方が頭角を現すのは大変努力が要ることでした。
1893(明治26)年に三須宗太郎は海軍省大臣官房に新設された人事課長に任ぜられます。翌年日清戦争が勃発しますが、この戦争を挟んで四年間、初代人事課長として軍政中枢部において人員配置などの内部行政で活躍することとなりました。のち「浪速」官庁などを務めますが、1901(明治34)年再び人事局長に任じられます。
日露戦争に際しては東郷平八郎司令長官が直轄する第1戦隊司令官となり「日進」に乗艦しました。同艦は旗艦「三笠」に次ぐ激しい砲撃を受け幹部が多数戦死しましたが、三須も間近に着弾した砲弾の破片で左目を失います。以後は「独眼竜」と呼ばれました。
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