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【百年ニュース】1921(大正10)10月15日(土) 岸田劉生が《麗子微笑》を描く。岸田が数多く描いた麗子像のなかでも最も著名な作品。重要文化財,東京国立博物館蔵。一度見たら忘れられない肖像画とされ,暗い背景でやや不気味な雰囲気と,作者の娘への溢れる愛情が両立する傑作。

この日、岸田劉生が《麗子微笑》を描きました。岸田が数多く描いた麗子像のなかでも最も著名な名作とされています。現在は重要文化財として、東京国立博物館が所蔵しています。歴史や美術の教科書にも掲載されていますので、多くの日本人にとって大変馴染みの深い作品と言えるでしょう。

たいへん不思議な魅力をもった作品で、一度見たら忘れることのできない肖像画です。暗い背景でやや不気味な雰囲気をもちながら、非常に精緻な描き込まれた毛糸の赤い肩掛けが温もりを感じさせます。岸田劉生が8歳の娘の姿を愛情をこめて描いた様子が伝わってきます。おかっぱ頭の麗子は口角を上げて微笑んでいますが、この表情はレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》の影響を受けたものとも言われています。

さて岸田劉生は1891(明治24)年6月23日生まれですので、当時満30歳、数えで31歳です。この頃の日記が『摘録劉生日記』として岩波文庫から発行されています。自分の家族を愛した岸田劉生の率直な心持や日々の出来事などが記してあり、非常に面白いです。この日の日記をちょっと紹介してみたいと思います。

10月15日(土) 昨夜遅かったので今日は9時半に起きる。床の中で新聞みたら『読売』に加藤だろうと思う男が如才なくなったとか嫌味なことを書いていたので嫌な気持ちがした。しかし結局他人に何と思われても自分は自分の仕事を世界に残せばこれ以上の誇りはない。人から感謝こそされ憎まれたり、嫌と思われたりすることは決してしない自信があるから、一時的な不快ですんでしまう。ヤクザな奴はヤクザなのだ。

10時頃写生に行く。いいところが見つからず椿〔貞雄*〕へ寄り、一緒にまた写生に出たが椿と別れ、去年春描いた石垣と土手に小松のある所へ行き、同じような図で描く。松にちょっと日本画の味をみる。

1時頃帰宅。麗子も帰って来たので、2時過ぎから麗子の肖像にかかり4時頃この画をついに仕上げる。

椿夫婦が来る。仕事おえてまたしげるも行き、久しぶりで椿と角力すもうとる。9月21日にとったきりだ。6時すぎまた椿夫婦つれて帰宅。

明月が照って美しい。麗子に、お月様に学校や字が上手になっていい子になって、丈夫になって、お化けの出ませんようにとお拝み、と言ったら手を合わせて拝んだ。可愛い奴だ。

椿たちと夕食、ビールに少し良い心地で長唄うたっていたら北野康次郎君が幸というちょっと知っている男つれて来訪。入浴。北野さん9時頃帰る。椿たちも9時半頃帰る。北野君から支那菓子もらう。

大阪の上田氏から芸術院の講演に出てくれとか、審査に立ち会ってくれとか言ってきたが、ちょうど長野行きとかち合うからこの次からにしたいと思う。

岸田劉生『摘録劉生日記』岩波文庫,1998,137-138頁 〔*は引用者註〕

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私も5歳と7歳の娘がいますので、月に手を合わせて拝む、この素直で可愛らしい麗子の状況がよくわかります。愛情たっぷりで育った麗子、そのあとはどのようになったのでしょうか。

1929(昭和4)年12月20日、麗子が15歳のときですが、父である岸田劉生が胃潰瘍と尿毒症のため、わずか38歳で早世してしまいます。1937(昭和12)年、麗子は23歳で歯科医の瀧本貞次郎と結婚。子供を三人もうけますが、戦後離婚し、高校教諭でのち作家となる臼井幸四郎(岸田幸四郎)と再婚しました。

しかし1962(昭和37)年7月26日、わずか48歳で急逝しました。

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