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【百年ニュース】1921(大正10)8月6日(土) 欧州留学から帰国した海軍大尉,大西瀧治郎(30)がセンピル教育団に参加する。英国海軍航空隊ウィリアム・フォーブス=センピル大佐は8月1日に新設の霞ケ浦飛行場に到着,総勢29名の英国航空将兵が1年半に渡り最新航空戦術を日本に伝授。

のちの海軍中将大西瀧治郎が欧州留学から帰国し、センピル教育団に参加しました。当時大西は海軍大尉、年齢は30歳でした。

このセンピル教育団といいうのは、英国空軍のセンピル卿、正確にはウィリアム・フォーブス=センピル大佐による、日本海軍への航空技術指導の教育団です。イギリスは第1次世界大戦終盤の1918年4月の段階で、王立空軍(Royal Air Force)として、世界で初めて独立した空軍を創設しました。陸軍航空隊と海軍航空隊を融合させて誕生したわけですが、第一次世界大戦の実戦で航空戦力が決定的だということが自明になったということで、「イギリス空軍の父」とされますヒュー・トレンチャード、のちの空軍元帥ですが、このトレンチャードによる運動によりまして、という独立した空軍を設立された、ということなります。

そして日本も海軍・陸軍ともに新しい技術である航空機を使った作戦に注目しまして、日本の陸軍航空隊は1919年よりフランスの航空教育団を招聘しまして技術指導を仰ぐという動きに出ました。そして海軍も若干遅れまして、当時は日本の同盟国でありましたイギリスよりミッションを呼ぶことになった、これがセンピル教育団になります。イギリス空軍も大変好意的でありまして、教育団は総勢29名、1921年9月からなんと18カ月間にわたって、海軍の航空技術を日本海軍に指導しました。

場所は新設されたばかりの霞ヶ浦海軍飛行場。イギリスから持ち込まれた飛行機は最新式のもの、また多様な戦闘機で約100機。生徒となります日本海軍側は、臨時海軍航空術講習部、を編成しまして。部長は田尻唯二少将、それ以下、多くの優秀な海軍将校が選抜されましたが、そのなかに当時大尉だった大西瀧治郎がいた、ということになります。

のち大西瀧治郎は山本五十六司令長官のもと真珠湾攻撃の策定にかかわり、また神風特攻隊の創設にもかかわったことで知られています。終戦直前の1945年5月には軍令部次長に就任、8月15日の玉音放送の翌日8月16日に割腹自決しました。大西の死の直前に、その場にいることになった児玉誉士夫、戦後のフィクサーとなる児玉ですが、児玉が後追いで自決しようとすると、「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と諫めた、とされています。

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大西瀧治郎

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