僕が祖母から受け継いだもの。

どうもこんばんは、吉沢です。

ただいまお通夜終わりの、
夜伽真っ只中です。

別に何をするわけでもなく、
祖母が寝ている部屋に残って
夜が明けるのを待っているところです。

みんな、早々と寝ちゃってるし。


こないだ、とある方から

「吉沢さんは言葉が強いから、
話してる時みたいに頭に思い浮かんだことを
そのまま言葉にする方が伝わって良きかもです」

というアドバイスをいただいたこともあり、

今この瞬間の思考、
思い浮かんだ言葉をだーっと
アウトプットしようかなと思い、
パソコンを立ち上げカタカタやっています。

こんな時間に、
ただただ思ったことを吐き出すだけ。

お酒もいっぱい飲んだので、
何の役にも立たない話を延々とするだけの
感じになるかもしれません。

そんな訳のわからない話を聞きたいという
物好きの方以外は、
この先わざわざ読み進めなくてOKです。

覚悟(?)はいいでしょうか?







では始めます。

お通夜は、親族および
ごく少数の祖母と親しかった人だけが来る想定で、

内々でひっそり終えるものだと考えていました。

それをどこから聞きつけたのか、

ご近所さんが参列してくださったり、
叔父(祖母の息子)の同級生の方がわざわざ来てくださったり、

それ以外にも祖母に縁のある方々が
次々に会場を訪れてくださって、
思いのほか大人数に見守られる中、
お通夜を執り行うことができました。

いやほんと、
どこから情報が漏れているのか?

個人情報どうのこうのが厳しいはずの現代において、

これほどまでに「口コミ」の威力の凄まじさを
感じることはないように思います。笑

ある意味で、
ビジネスにおける重要なポイントを
教えられている感じです。

これも、祖母が最後に
僕に何か伝えようとしてくれてるってことなのかな?

そういうものには、
縁もゆかりもない人だったはずなんですけどね。


まあ、それはさておいて、
お通夜および葬儀については、
ほんとに内々だけでひっそりと
やってしまうつもりだったんですよ。

町内会の会長さんのところに報告する時も、

「お通夜は夜だし
無理して来てもらわなくていいですよ」

って回覧含めて周知してくださいね、
と念押ししていたんですけどね。

それでも、
予想を遥かに上回る人が
わざわざ足を運んできてくださったというのは、

一重に祖母の”人徳”だったのではないかと、
身内ながらに思うわけなんですよ。


お通夜の最後、
叔父が締めの挨拶で言ってました。

祖母は、14歳の時に父親を亡くし、
その後長らく、祖母の母(僕の曾祖母)と
母一人子一人の生活を余儀なくされたそうです。

その曾祖母は、比較的病弱で
手のかかるタイプだったとのことで、
祖母は相当な苦労をしてきたのでしょう。

また、時代も時代だっただけに、
それなりに貧しい生活をしていたんだとか。

そして、祖父(祖母の夫)は
齢59でこの世を去ったということで、
その時も相当、
祖母は精神的に参っていたようなんですよね。


そんな感じの、客観的に見れば
ともすれば”同情されるような人生”を歩んでいたかもしれない祖母が、
こんなことを言っていたそうです。


「貧乏とか境遇とか、
そんなんで同情されるのは御免だ。
そう思われないように、
いつも明るく、笑顔でいたいと思う」


随分ながーく一緒にいたはずなのに、
そんな言葉、本人から聞いたこともありませんでした。

たしかに、言われて思い出してみれば、
どんなときでも祖母は明るくて、
笑顔が絶えない人でした。

僕が離婚することが決まって
焦燥しまくってた時だって、
そのことに直接触れてくることは全くなかったけれど、

昔の楽しかった思い出話を唐突にしてきたり、
自分自身が面白いと思ったことについて
一生懸命話してきてくれたり、

僕の気分を少しでも和らげようと
配慮してくれてたんだなーと、
今になってようやく理解しました。


知らず知らずのうちに、
僕は常に、祖母に支えられ助けられていたのかも知れません。

これは単に僕が感じていることですが、

その気遣いを悟られないように、
さりげなーく届けることが、
祖母は天才的に上手かったのではないかと、
そう思えてなりません。


叔父の話の中で印象的な話だったんですが、

叔父が家にいない時にも、
叔父の同級生の方々が
祖母を訪ねてよく遊びに来ていたそうです。

「何してたん?」と叔父が祖母に聞くと、
「みんなで一緒に編み物してた」
って言ってたんとか。

僕がまだ実家にいた頃も、
叔父はその場にいないのに、
叔父のお友達の方が、祖母を訪ねてよく家に来ていました。

今日だって、
何ならただの赤の他人のはずなのに、
わざわざ足を運んでくれる人が何人もいました。


まさに、”人徳”ってやつですよ。

僕の周りに「人垂らし」な人って
割と結構いるんですけれど、

そんな素敵な人たちと比べてみても、
祖母ほど周りに人が集まってきて、
みんなに良くしてもらっている人を見たことがありません。


どう頑張っても、
僕にはそんなことができる気がしません。

どう考えても、敵う気がしない。

今更ながら、
祖母の底知れぬ人間力を実感しています。


少しだけ冷静になれた今だからこそ
思えるのかもしれませんが、

きっといい人生だったのでしょう。

身内のことを褒めるのも何ですが、
祖母の息子である父と叔父は、
本当に親孝行をしたと思います。

母なんか、実の親と一緒にいる時間よりも
ずっと長く祖母と一緒に過ごしてくれてたわけで、

まあ、その間好き勝手、
祖母にはいろんな言葉吐いてましたけれど、
最後まで一生懸命お世話してくれてましたし。

うちの弟二人だって、
そんなに直接的に何かしてたわけではないと思いますけど、

いざ何かあった時は
いろいろとやってくれてましたし。

優しいやつらなんですよ。


じゃあ僕は何かできたのか、というと、

たまーに顔見に帰るくらいで、
何か孝行できたのかって言われると、
正直な話、ちょっと微妙なんですけどね。

でも今日、
父親からさらっと言われたんですよ。


「ばあば、最後にお前に
『小遣いやれんかった』って後悔してたわ」


‥え、そこ?

もしかして、
最後に言おうとしてたのって、それ?

なんとまあ、
ちっちゃいことで後悔してることか。


そういえば、
この歳になって恥ずかしい話、

実家に帰るたびに
おばあが小遣いくれるもんで、
ありがたくいただいてたんですよ。

今思えば、おばあからすれば、
孫にお小遣いをあげることが、
ちょっとした喜びだったのかもしれません。

事実、叔父と父に遺した最後の言葉が、

「遺産はちゃんと二人で分け分けせぇよ」

だったそうですから。

最後、叔父が

「わかった、
弟と二人でしっかりもらうからな」

って伝えたら、
ニカッと笑ってたそうですし。

最後の最後まで、
母として、祖母として、
子と孫のために何かしてあげたい、
という気持ちを持っていたんじゃないかと、
そう思えるんですよね。


そんなこんなで、
いろんなことを考えてるうちに、

一つだけ、
僕にも確かに受け継がれている
DNAがあることに気がつきました。


それは、
「どんな時でも明るくいたい」
という思考、です。


ここ数年で転勤やら部署移動やら、
環境が変わることが多かったのですが、

特段何も意識していないはずのに、
動いた先で「必ず」と言っていいほど言われることが、

「吉沢さんが来てから部の雰囲気が明るくなりました」
「吉沢さんが入ってから会議でのみんなの発言量が増えました」

ということなんですよ。

思い返してみれば、
とにかく自分も楽しくいたいし、
周りの人にも楽しんでほしいし、

そういう意味で、
とにかく場を盛り上げることに徹していたのは事実です。


どんな時でも、遊び心を忘れない。

そうやって、
普段から自然と振る舞ってきたように思います。

僕の座右の銘の中で最も好きなのは、

「遊びをせんとや生まれけむ」
(何のために生きるのか?それは遊ぶためである)

ですし。


なんで僕はこんな人生観なのかな、
というのが今までわからなかったのですが、

それはきっと、
祖母の遺伝子を継いでいるからなのでしょう。

今日、初めて理解しました。


だったら、この先も
その意志を喜んで受け継いでやりますよ。

世界平和とか、
世の中のために何とかとか、
そんなスケールのでかいことには全く興味はないけれど、

僕の目に止まる人の役に立つことくらいは、
できるはずです。

その人が生きることを楽しめるように、
一緒に悩み、考え、喜びを分かち合い、
一緒に成長していきますよ。

「自分自身と周りの人を明るくする」ことを
大切にしていた、祖母のように、ね。


それが、
僕自身の”誇り”になると思いますので。


長文読んでいただき、感謝します。

ここまで読んでくださったあなた、
相当な変わり者ですね。笑

そんなあなたが、僕は大好きです。

これからもどうか、
仲良くしてやってください。

よろしくお願いします。

少しずつゆっくり、
テンションやら何やらを元に戻していきますので、

もう少しだけ待っていてください。


それでは、今日はこの辺で。
またお会いしましょう。
バイバイ〜!

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