足
<○:編集点、1秒間以上間を空ける>
A:妻、B:夫、C:医者
A 私には、足がない。
妊娠中に交通事故に遭い、両方の足を失ってしまった。
不幸中の幸いで、子供は無事に産まれたが、
もはや自分の用も満足に足せない私にとって、
子育ては難しい。
だから、夫には子育ての多くを任せっきりだ。
夫は、今日もベビーカーに乗せた子供と散歩へ出かけていった。
午後4時を過ぎた頃、
夫が帰ってきた。
日が沈むにはまだ早く、
夏の盛りだというのに、
夫の顔は血の気が引いて、青ざめていた。
唐突に、夫は、
「子供を川へ落とした」
と言った。
ほとんど無意識だったらしい。
川を見せてあげようと、欄干(らんかん)の外へ子供を掲げて、
そのまま、手を放してしまったという。
茫然自失から立ち直り、
欄干から身を乗り出したときには、もう遅く、
子供はとうに流されてしまっていた。
夫は私に泣いて詫び、そのまま膝を折って玄関にうずくまった。
私はしばらくの間、何も考えられなかったが、
気がついて、夫をみると、
彼はまだ玄関にうずくまった状態のままだった。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
私には、もう、
何もわからない。
私は、うなだれた夫の頬に、
指先でそっと触れる。
夫が泣き顔のしわくちゃになった顔をあげて私を見た。
何か、すがるものを必死に求めていることが、
その眼差しから伝わってくるようだった。
私は、夫の涙を指の腹で優しく拭い(ぬぐ)
肩に手をかけて引き寄せ、抱きしめた。
私はおかしくなってしまったのだろうか?
こんな状況だというのに、私は夫が愛しくてたまらない。
私は考えることをやめて、夫に覆い被さるようにして
玄関に倒れこんだ。
お互いの体をきつく抱きしめ合ったまま、
私たちは、そのまま、深い深い眠りに落ちた。
<場面転換>
翌日、夫はかかりつけの心療内科へ向かった。
B 「先生、指示された通り、
妻には、子供を川に落としたと告げました。
、、、全く、妙なものですね。
子供なんて、はじめから存在していないのに、、、」
C 「ええ。全く、奇妙なものですな。
、、、それで、奥さんの反応はどうでしたか?」
B 「悲しんでいる様子でしたが、
私を責めることはありませんでした。
じっと悲しみに耐えるように、震えながら、、、
もう、、、あんな妻は見ていられません」
C 「もうしばらくの辛抱です。
これで、子供に関する妄想が薄れてゆくはずですからね」
B 「こんなことはもう終わりにしたいですが、、、
本当に、妻の妄想はこれで治るのでしょうか」
C 「断言はできませんが、徐々に回復していくはずです。
来週もまた、いらしてください」
<場面転換>
A 夫が診断室を出てゆくと同時に、
医者は大きくため息をついた。
C 「まったく、厄介な患者だ。
彼の奥さんは1年も前に交通事故で死亡しているというのに、
未だに妄想の中で、一緒に生活を続けている」
A カーテンをめくり、窓から外を見ると、
夕暮れを過ぎて、暗くなり始めていた。
C 「、、、しかし、本当に珍しい症例だ。
妄想にしては、ストーリーに一貫性があり、
あまりに現実性を帯びている。
まるで、本当に奥さんと生活しているようだ
○それに、彼の奥さんには足がない、、、か。
なにかの悪い冗談のようだ」
A 医者は急に寒気を感じ、カーテンを閉めた。
最後まで読んでくれてありがとー