歴史と経済90〜ゆとり〜

ゆとり教育は人間中心主義の考え方に基づいている。

かつては高度経済成長期に期待される人間像が求められ、能力主義的な教育が展開された。
いわゆる詰め込み型教育による新幹線授業は時代の要請に応える一方で、落ちこぼれといわれる学習についていけない児童・生徒を多く生み出すことになる。

このような産業・教育の関係性が変化し、社会構造そのものが変革することになったきっかけが石油危機である。
工業化の進展は公害という社会の歪みを生み出し、人間に悪影響を及ぼした。
生産性の合理化、持続可能性を追求する産業・社会構造が求められていくこととなり、知識の詰め込みから子どもを解放し、自ら考え、行動する力や個性を重視した教育が求められることになる。
そして、21世紀に向けて国際化・情報化、生涯学習に対応した教育が目指されていくこととなる。
同時に政府は官から民へ行政のスリム化を志向した。
これは、イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領、日本の中曽根首相が軌を一にして進んだ路線であった。


この影響は教育内容をスリム化することにつながり、実際に教育内容が3割削減され、土曜日が休日となることで「ゆとり」が現実味を帯びてくることになる。
ゆとり教育の起源は1977年の学習指導要領改訂にまで遡り、一般にイメージするよりも広いスケールで捉える必要があるだろう。


そして、この時に起きた「変化」は現代教育の基盤となっている。
知識詰め込みから脱却し、心の教育や活動重視の「知・徳・体」の調和を重視したカリキュラムは、この時目指されたものである。
子どもたちの主体性を尊重し、「生きる力」を養おうとしたものである。


現代においても、知識のみならず、思考力・判断力・表現力を重視している。
もちろん、知識・理解の質はこれまで以上に尊重されるべきとされる。


しかし、知識や理論が机上の空論で終わってしまってはナンセンスであり、さまざまな世代の人々と協力しあい、支え合い、知恵を出し合って協働的に行動する態度が求められる。


このような資質育成の役割を今後の教育は担わねばならない。

自省する時間を生徒に求める前に、教員自身が指導法を検討し、さらなる発展を迫られることになるだろう。

それには教員のみならず、入試制度も含めた教育体制の抜本的な改革も必要になる。
大学入試がどういった学力を求めるかで、授業も変わってくる。


教育現場は、必ずしも教育の論理だけで動いているとは言えない現状がある。
特に高校現場は入試を念頭においた競争原理を基盤としているのも事実だ。
生徒の純粋な社会への見方・考え方の育成よりも、大学進学の方を重視する指導を尊重する風潮がそれである。
大学進学実績が羨望の眼差しで見られることはあっても、社会行動へと結びつく授業が注目されたり、保護者から要望されるといった場面はまだ限られていると言えるだろう。
しかし、そういった状況の中で生徒の資質・能力に正面から向き合い、入試への対応とどのように統合させていくか。
遠くない将来、両者ともに目指されることが望ましいことではないか。

このことを実現するためには、教育現場だけでなく教育制度そのものも改良の余地があり、まさに教育界全体が一丸となって同じ方向性を目指す覚悟が必要である。

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