胎の青い鯨

彼が安らかに荼毘に付すことをみとめてやれなかったのは、どうしようもないおれのエゴだった。
いつか溶けて蜂蜜みたいになった彼を、風呂の詮を抜いて下水道に還すときがくる。後には一人分の人骨と、老いさらばえたおれと、その罪だけが残るのだ。

 


 1

秋口、まだ少し夏の日差しが残る頃、風呂の浴槽できのこを育てはじめた。 
正方形の浴槽に押し込まれた死体は、こちらへ濁ったまなざしを向けている。しかし、そこにおれが映っていないことは分かりきっていた。視線はおれに届くまでに空中へと拡散し、なにかを捉えることはできない。赤の混じった半透明の液体に腰までを浸けて、ただ茫然と、くもったグラスアイのような瞳が空を見つめていた。
今朝、急に思い立って風呂場の電球を青い塗料で塗った。 照明は、彼の腕に絡みつく、植えたばかりのやわらかな菌糸を青く照らしていた。彼の死体に植え付けるため、ネットショップで目についた菌糸を数種類購入していたのが昨日になってやっと届いた。これが育ち、やがてきのこのかさを開く。
菌糸はどこかスズメガの触角にも似ていた。これらは体表の細かな裂傷から薄い皮膚の下へともぐり込む。やがて血管の中にまで根を巡らせ、体内を蔓延してゆくのだ。 
ふと、おれの頭のなかでこんな想像がされた。 このまま白い綿のような菌糸が彼を包んで繭をつくり、やがて冬の終わるころには大きな蛾が生まれる。想像の中のおれは、鱗粉まみれの毛羽だった塊を抱いて、あたたかいココアを飲んでいる。恋人というのは良いものだねえ。おれがそう言うと、かつて彼であった巨大な蛾は翅を震わせながらたゆんだビデオテープの音でキュルキュルと鳴いた。それに自我があるのかはわからないけれど、いっそ白痴のような虫けらであったほうが幸せなのではないかとすら思えた。 
ここはまるで水槽だった。メタルハライドランプの下に立ち上げられた不衛生な楽園だ。この底冷えのする閉鎖空間に彼の死は囚われている。おれは弔ってやるどころか線香の一つもあげてやれないのだ。
そんな中、換気窓から入るわずかな光が、唯一この狭く冷たい地獄に差す希望に思えた。  




かびっぽいタイルの壁は下方より伸びるアイビーの蔦に覆われつつあった。ワイヤープランツの鉢植えが枯れたサボテンの上に葉を落とした。浴室の床は面積の大半を多種の観葉植物が占めている。どれも花を咲かさない草木ばかりであった。それらが青い照明の下でひっそりと茂っていた。
そこに野生の強かさや傲慢さは一切感じられない。桶に漂う水草のように、時折人為的な波紋を受ける以外はただ静閑さに身を委ねるばかりであった。
バスタブの男もまた、植物たちの作り上げるオアシスの中で、その構成要素の一部として機能していた。いまの彼はオブジェクトであり、きのこを育む菌床という一つの飾りに過ぎない。 
納得がいかなかった。果たしてこんなにも悲しい不条理がまかり通って良いわけがないと思った。同時に、彼をヒロインに仕立てるための様々な方法がおれの頭の空洞にぐるぐると渦巻いた。
透明のゴムでできた風船にヘリウムを入れて、紐で彼の指にくくりつければいい。指が溶けてしまう前に、形が残っているうちに。 
ふと、洗面所の棚に、以前買った香水を置きっぱなしにしていることを思い出した。直樹くんに似合うと思って買ったものの結局渡せずじまいになってしまったせいで、もう何年も、おれが昔よく使っていたコロンの隣に並んでいる。 
ガラス瓶のぶつかる喧しい音を立てながら、いくつかの香水を持ち出した。
みずみずしいグリーンのオードトワレを空中に向けて吹きつけると、窓からの陽を受けて、セノーテに差す陽光のごとく輝いてみせた。芳香は粒子となり、後には冷たい霧が降り注いだ。それを何度も繰り返す。次第に明るい茶髪は濡れ、やがて束になった髪から透明の水が滴った。水滴はその奥に、直樹くんの体を浸す赤色を反射している。血のこびりついた彼の指先と手首の内側におとなしい香りのトワレを吹きつけながら、気づけばおれは泣いていた。バスタブの中の粘度の高い血溜まりに水滴が落ち、混ざることのないまま沈んでいった。 
淀み乾燥した空気の下で液面はひたすら静かだった。 





バスルームから漏れるラジオを聞きながら、キッチンでコーヒーを淹れていた。インスタントの粉末を湯に溶かしただけの味気無さがかえって好ましかった。そういえば浴室の男は生前、自宅で淹れるにしても凝ったやり方をしていたように思う。いつか彼が仕事終わりに濃いブラックコーヒーで労ってくれたのを思い出した。 
陽の入らない廊下は暗く、日陰の陰鬱さに対して、浴室に近づくにつれ大きくなるラジオからの音楽はひどく不釣り合いだった。 
洗面所に入るとわずかに青臭さの混じったジャコウが香った。磨りガラス越しに見る植物たちの輪郭は黒くぼやけ、なにか得体の知れぬ化け物を棲まわせているかのようであった。 
戸を開くごとに、草いきれ満ちた温室を思わせる土の匂いがきつくなる。冷えた金属のドアノブが手に痛かった。 
きつい西陽を体の正面に受けながら、まばらに枯れ葉の積もった床に立つ。 
彼は昨晩となんら変わった様子もなくそこにあった。溶けたバニラアイスほどの粘性をもった液体に体を沈めてこちらを見ている。 
戸を閉めたとき、背後のラジオが『チューリップ畑を忍び足』を流しはじめた。過剰なファルセットの反響はタイル張りの小さな水槽を一瞬で駆け巡り、ユッカの葉を震わせた。 
ガラス玉のようなプリズムがいくつも壁に泳いでいる。どうも窓辺に置いてある香水瓶が、外からの光を集めるサンキャッチャーの役割をしているらしかった。 忙しなく揺れる光を目で追っていたその先で、大きな蟻が壁を這うのを見つけた。蟻はタイルの継ぎ目に沿って、膨らんだ腹を抱えて動き回っていた。親指の爪で腹を潰すと中から赤茶色の蜜が溢れた。蟻はしばらくの間壁に張り付いたまま頭と手足のみで暴れ、液体は重力に従ってわずかに垂れた。 
「かわいそうだ。本当に悲しくてだめだね、直樹くん」
ここでは何を言っても結局己に返ってくるのみであった。 
床には枯れ腐った落葉が堆積している。まるで、おれのやってきたこと全てを表しているかのように思えてならなかった。 




4 


ちょうど一ヶ月が過ぎた頃、風呂場の電球が切れた。青い電球をソケットから外したあと、代わりにキャンドルランタンを置いた。死体に生えているきのこを三本抜いて、ランタンの柔らかな火にくべた。蝋の溶ける甘い匂いがしていた。 
この日、おれは初めて死んだはずの彼がまばたきをするところを見た。
外からの風をうけて換気扇が回っていた。ぐるぐると、ぐるぐると風車のよう回っていた。落葉の積もった床に腰を下して、その様子を長い間見つめていた。 
背後でラジオが鳴っている。 
頭痛がして、胃のあたりにひどい違和感がある。植物の青臭さと諸々の香水が充満するこの空間に、溶けた蝋の甘ったるい匂いが混ざって最低な気分だった。
それでいて、そこはかとない幸福を感じているのもまた事実だった。ぼんやりとした幸福感が全身を満たしているのだ。目を閉じていても、瞼の裏には、いつかの未来で出会えたかもしれない幸せのビジョンが映った。幸せというものは往々にしてその尻尾を見せることをせず、掴み所のない性根をしている。かくいうおれも、幸福の尾を掴み損ね、取り逃した類の人間に違いない。  
この狭い空間にぽつねんと座り込んで、あるときは己の行いを顧みる、またあるときは来るはずのない未来を夢想するといった風に、人間の思考のなんと自由なことかと感心していた。 

一ヶ月前のあの日、生ける屍となり果てた親友を床に抑え込み、なおも噛みつこうとする彼の顎を火かき棒で砕いた。馬乗りになって、噛ませた鉄の棒を力の限り押し下げた。骨どうしの隙間が徐々に広がり、しまいには肉もろとも千切れるあの感触を覚えている。大きく開いてしまった口からは喉の奥までが一直線に見えた。やがて蜂蜜みたいに粘ついた血が溢れはじめ、だらしなく脱力した舌をわずかに押し動かした。そのあと一度ひゅう、と喉を鳴らして、それきり動かなくなった。隣には、彼の激しい抵抗の末に割れたポトスの鉢植えが散乱していた。辺りに飛び散った肥料混じりの肥えた土を、死体から流れ出た赤が侵食していった。 
まだかすかに熱を残す体を風呂場へ運び、バスタブに入れるころには喉からの血も止まっているようだった。廊下の血痕をすべて拭き取ったあと、鉢の割れたポトスも同様に風呂場へ移動させた。 
ともすれば直樹くんの棺桶でもある浴室をなにか見栄えのするもので埋め尽くしてやりたい衝動を覚えたのはその時が初めてであった。淋しさだけを溜め込んだがらんどうが、どうにもせつなくて我慢ならなかったのだ。 
それからは、寒さに強い草木を見つけるたび買ってここに飾った。鉢植えは順調に増え続け、およそ一ヶ月でバスルームの床を埋め尽くした。それでも一度として花をつける植物を選ばなかったのは、己は彼を弔うに足る人間であるという思い上がりを許さない意味での自戒であった。 

でたらめにチューニングしたラジオが延々と彼に世界の有相無相を話して聞かせていた。時には歌さえうたった。なにもしてやれないおれの代わりに、世界中のラブソングを聴かせた。たとえそれがおれの声であったとしても、直樹くんは一様にパチンとまばたきをして、それだけだった。ならばオーディオからの音の方がずっといい、ずっと虚しくない。ラジオは歌いつづける。 
外では雨が降りはじめた。さらに気温が下がったように感じる。磨りガラスの向こう側に水の筋ができていた。 

 


 


古アパートの並ぶ裏道を歩いていた。どこかで人の気配がすると、どうしてか恐ろしいような後ろめたいような気持ちがワッと襲ってきて、自然と歩みが速まる。昼間だというのに薄暗い、さほど幅は狭くないはずのこの道が、やけに息苦しいような感覚を通行人に与えるのも、両側に途切れることなく続くしみだらけのコンクリート壁のせいだった。
直樹くんの家からの帰途だった。彼を殺して以来こうして毎日通っている。おれの家はいま当然ながら風呂が使えないので、歩いて二十分すこしの距離にある彼の家で借りることにしていた。長く家主のいない部屋を周囲に怪しまれないようにと考えてのことだった。彼の部屋の郵便受けが受取人不在のために溢れることはない。 
帰宅後、台所で一服してから風呂場へ向かう。シンクに置いた灰皿では細く煙が燻っていた。 
浴槽のふちに落ちていた、干からびてかさの開いたきのこは、食菌とは明らかに異なるコバルトブルーが根元を染めていた。死体を養分に育ったきのこだ。かさが開ききる前にうまく摘み取れば同じところからまた新しいのが生えてくる。摘んだきのこは、観葉植物の葉とともにバスルームの床に積もっていった。ごくたまに、少しだけキャンドルの火にくべることもあった。 
気が付けばいつもここにいる。真っ青な照明の下、キャンドルランタンの炎が揺れる。火の根元では、まだ水気の含んだ細いきのこが数本燃え渋っていた。朦朧と立ち上る煙はどこか龍涎香の薫香を彷彿とさせた。 
何もかもが混ざった匂いがしている。 
さまざまな所にいつのまにか飛んだ胞子が根をつけていた。壁で潰した蟻の死骸からは、かびとも幼菌ともつかないような白い綿毛が拡がっている。 
爛れた彼の舌では、茶色く丸いかさをつけたきのこが育っていた。それを根本から爪で千切り、数回ばかり噛んで飲み下すと、後には生臭いような苦味が残った。口直しに、持ち込んでいた十二年もののザ・マッカランを舐めた。 

隅に何も植わっていない鉢が置いてある。これをリビングの窓辺に飾っていた頃、直樹くんはおれの家を訪ねるたび、この鉢に水を与えた。それから一ヶ月もしないうちに植わっていたサボテンは枯れた。水のやりすぎと日光不足で葉を腐らせたのだった。次に彼が来たとき、窓にはすでに新しい別のサボテンが据えてあった。彼は見慣れぬであろう多肉植物を特に気にした様子もなく、いつも通り水差しを手に取った。しばらくののち、これも前の鉢とまったく同じ理由でだめになった。 
換気窓の窓台に、香水瓶と並んであの時の水差しがある。中身はウイスキーを数滴垂らした水だ。アルミ製の小ぶりで上品なそれを、直樹くんはいたく気に入っていた。  

生前かの男に性欲を感じたことはただの一度もなかった。しかしそれは決して、おれが死体相手に欲情する性癖不具者だといっているわけではなく、むしろ想い人が死んではじめて己の恋心を自覚する哀れな男にすぎないことを意味している。 
いやに青白くなってしまった恋人の顔を、ずいぶんと長い間眺めていた。この光の下で見たときばかりは、爛れた肌も本来の艶めきを取り戻したかの如く、妙に色のある滑らかさを湛えていた。 

そしていま、おれの眼前に広がる光景の不可思議さたるや、到底此岸に存在しうるものとは思えぬほどであった。 バスルームにはくらげの雨が降っていた。天井から深海くらげが生み出され、次々と頭上に降り注ぐ。半透明の触手が手に触れると微かに痺れたような違和感を覚えた。 壁にまばらに生える苔が光っているのに気がついた。かの有名な羅臼マッカウス洞窟のひかりごけがうっすらと上品な金緑に発光するのに対し、こちらは毒々しい蛍光グリーンを宿している。
背後ではノイズ混じりの男の声が複数人分、なにやらむずかしそうにウンウン唸っている。見れば大きなウツボカズラがラジオと身を寄せあい語らっているのであった。相槌を打つたび袋の中の消化液が音を立てて揺れる。はて、こんなもの持ち込んだかなとも思ったが、長考している暇もなく、唐突に酷い吐き気がおれを襲った。 
咄嗟に氷の溶けて薄くなったマッカランを煽る。カラメルにも似た甘さが喉を撫ぜ、食道の粘膜に焼けつくような熱を与えた。 
「しあわせだなあ、しあわせだよなあ、直樹くん!」舌の付け根が痛む。口を開くと吐き気と共に口内に溜まっていた唾液が零れた。
突然、ウツボカズラの口から赤黒くぬるついたなにものかが生えた。よく見るとそれは一本の蛸の足であった。続いてもう一本、さらにもう一本といった具合で足は増え、やがて吸盤だらけの触腕の根本に異形じみた丸い頭が現れた。その表面は食虫草の消化液とも己の体液ともつかぬ汁に塗れ、青や緑の光源を反射しててらてらと光っていた。カズラは両手に余るほどの大きさの蛸を腹の内に飼っていたのだ。這い出そうとする蛸の重みに耐えきれなくなったカズラは根本から茎を折り、捕虫袋を床へ落とした。中身が散らばる。さっきまで饒舌だった食虫草は短く呻いてそれきり喋らなくなった。
ラジオが人殺し、とだけ呟いてチャンネルを変えた。無意味な音楽が流れはじめる。 
「ちがう、おれじゃない」
蛸は絡む足をキャタピラの如く動かして這う。やがておれの足元まで来ると、その斑の体表はみるみるうちに溶けだした。軟体動物特有のてらついて滑らかな表皮が沸き立ち、身体全体を泡が覆う。 
眼下の醜い塊から目を逸らすようにしてバスタブの男に向き直る。すると彼は今一度、その黒く艶っぽいまつ毛を震わせてまばたきをした。次に目が開かれたとき、その瞳は明らかな生者の光を宿していた。どういうわけか彼は二度目の黄泉帰りを果たしたのだった。目の奥に強く窺える感情の正体の、悲壮か憤怒か、はたまた憐憫であるか。おれにはどだい判断がつくはずがなかった。 
喉が渇く。口のなかを湿そうにも、酒を注ぐ手に力が入らない。グラスは指の間を滑った。カラメル色の液体が床へ飛び散り、氷はガラスにあたって金属質な音を立てた。幸いにも層をなして床を覆う厚い枯れ葉の膜のおかげでグラスは割れなかった。 
直樹くんがひゅうと喉を鳴らす。換気扇からのすきま風の音にも聞こえた。 
本来彼のもつ鷹揚な人となりを映す双眸が、さめざめと血涙を流している。下まつげに真っ赤な血が溜まり、それからすぐ頬を伝って流れはじめた。彼が再びまばたきをする。もう一本赤い筋が増える。 その様子がいやに艶めいていて、どこか扇情的にすら見えた。 

「悲しいね、直樹くん」
いつか人魚の血しょうから採れる不凍液が手に入ったら、きれいな透明標本にしてあげようと思っていた。 
そうしてはじめて、おれのやってきたすべてのことが報われ、赦されるのだ。 
北へ、故郷へ帰ろう。オホーツクの海にガラスの棺を沈めて、流れ着いた場所があなたの墓だ。 
タイタニック号の乗客みたいに海を漂いながら、俺はきっとこう言うだろう。懐かしいね、直樹くん!
そこまで考えて一度大きく身を震わせた。まるでさっきまで本当に海水に浸かっていたかのように肢体の末端の感覚が失われている。 
永遠に披露することのないであろう口上ばかり思い付く。頭の中でロマネスクが出来上がっていくにつれ、対照的におれの心中は陰惨に翳り、湿ってゆくのだった。
死者は黙して語らず、遺されたものは故人の墓前に膝をついて泣き明かす。 
「最近はこうしてあなたに話しかけるのもやめていたね。せつないやら虚しいやらで、とてもじゃないけどやりきれない。寂しいなあ、寂しくっていやになるよ。許してくれとは言えないけれど、それでもやっぱり、許されたくてたまらないんだよねえ」
血の涙は拭うと指の上で透明に変わった。 
はじめの頃のような多幸感はなく、頭痛の増すにつれて鮮やかな世界も失われつつあった。 
窓から細く西陽が差した。日が傾きはじめている。 

「同じ過ちを繰り返すようだけど、ねえ。すきだよ、愛しているとさえ言ってもかまわない」
 その瞬間、彼の目に宿ったのは純然たる失意だった。最期の苦しみと無念をそのままに眼球に焼き付けている。現世を憎む仏の、或は修羅の如き眼差しに射竦められ、全身が強張るのがわかった。骸は未だ朽ちねど、魂は既に彼岸に棲む者に違いないのだ。それを理解した瞬間、とてつもない虚脱感が襲った。 
「人殺し」
視線から逃れようと顔を背けたとき、たしかに死体はそう言い放った。驚いて向き直るが、死者は再び沈黙を守っている。しばらくのあいだ息を詰めて、微動だにしないそれをじっと見つめていた。やはり何も起こらない。深く息を吐いた。当たり前だ。あれらは総じて幻聴や幻覚といった虚構に過ぎない。 
次第に頭の中を覆っていたもやが晴れ、思考が正常さを取り戻していくのがわかった。 
どれだけ深く酔いに溺れても、まだ人並みに残った罪悪感が、おれに都合の良い夢をみることを許さないのだ。  

いつの間にかランタンのキャンドルは溶けきって、甘ったるい煙を吐く炎は消えている。蛸やくらげはもうどこにもいない。ひかりごけは輝きを失い、ただ静かに深緑を湛えている。白く濁った死体の目は虚ろに開かれ、今や一切の感情を映してはいなかった。とめどなく溢れていた赤い涙も消え失せ、充満する土の匂いと香水と煙の中で、腐臭ばかりが際立った。やがて春になれば、彼の肉は腐り落ち、浴槽に溶ける。後には一人分の人骨と、老いさらばえたおれと、その罪だけが残るのだ。  

マッカランの瓶を手にとった。排水口の傍には潰れて斑に青く変色したヒカゲシビレタケが落ちている。視界の端に青い蝶が飛んだ。夢の、正しくは幻覚の残り香だ。 
「もう終わりにするべきなんだろうな、あんたもそう思うでしょ」
あくまでこれは独り言だった。だから答えがなくとも一向に構わなかった。 
「明日にでも誰かに来てもらって、洗いざらい喋ってしまうのがいいだろ、なあ」
幻覚きのこのトリップに興じて、自分はゾンビになった恋人を泣く泣く殺した男だと、そう思い込んだまま一生を過ごすのでは立ち行かないのだ。そんなところまで来てしまっていた。 
真っ赤な太陽が息苦しい曇天を裂いてここまで届いている。あれだけ爛々とポーラスターさながらの輝きですべてを青く塗りつぶしていた照明は、外の巨大な光源にその幻惑的な魔力を奪われ、もはやただの微力な発光体と化していた。 

ラジオがやけに陽気なカントリーミュージックを流している。以前どこかで聴いたことのある気がしたけれど、思い出せそうになかった。過剰なファルセットの反響が耳に痛い。 
「直樹くん、やっぱり悲しいねえ」
ボトルに残ったマッカランを浴槽の中にぶちまけた。上澄みの層が薄く張る。 
ポケットにはライターと一本だけ中身の入ったハイライトがある。 
おれは煙草に火をつけた。



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