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まな板の上の鯉



 ある日、知り合いから届け物があった。クール便ということもあり、もしかしてのい思いがあったが、案の定「魚」だった。
 もうずいぶん前の話だが、結婚当初、もっとも苦手だったのが魚の調理である。というより恐くて仕方がなかった。

 あの魚の目がいけない。こちらは視線を無理にでもそらすのだが、魚のほうは凝視しているようで、つい見ててしまうのだ。それも生きている魚ならともかく、死んでしまって動かない目玉というのは、何も見ていないはずなのに妙な力強さがある。少しでも包丁を入れると、死んでいるはずの魚の目だけが生き返り、「ワレ! イイカゲンニセンカイ!」とにらまれそうで、顔をそむけ、目もしっかり閉じて、見て見ぬふりの精神で一気に包丁を入れていたものである。

 年月を経ても苦手意識は消えないまま、その日の到来物と向き合った。あの高級魚のヒラメである。しかも活魚、生きているのだ。箱の中に入れられた「おいしい活け造りの仕方」という説明書によれば、まずは包丁の背でヒラメの頭をたたいて気絶させ、それから手早く調理を始めよという内容である。私は、美味で、透き通った白身の薄造りだけを頭に描きながら出刃包丁を握り締めた。

 居心地悪そうに機敏に動くヒラメを、まな板の真ん中に乗せるだけでも、ため息の2つや3つは出る。ひとまず精神統一のための深呼吸。ヒラメの動きが止まったと思われた瞬間、生き物を殺すという後ろめたさから半分目をつむり、それでも力を込めて、包丁の背で「コーン!」と一発、頭を直撃した。
 ところが、ヒラメはビクともせず、まな板の上で元気にはね回るのみ。刺激が加わって、さらに元気になったような気がした。私は、「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」と念仏を唱えるように繰り返しながらも、出刃包丁を握った手は力を込め、2回、3回と頭たたきに挑戦した。しかし、たたく力が足りないうえに、たたく場所も悪いのだろう。人間の一方的な襲撃に、ヒラメはますます元気を増したようの見えた。

 そうして台所の片隅で格闘しているうちに、頭に浮かんできたのが、いつか観たテレビドラマの殺人バラバラシーン。やや大人しくなったヒラメに取説を見ながら包丁を入れるのだが切れ味は悪く、というより包丁さばきが最悪で、薄造りになるはずだったヒラメは、ヒラメらしからぬ姿のグチャグチャ造りと、身をいっぱいつけたあらの空揚げに姿を変えてしまった。近所の魚屋さんに持ち込んでさばいてもらえばよかったと後悔しても後の祭りである。 
 それにしても、生きているうちにまな板に乗った魚の目には、人間がどのように映っているのだろう。人間世界で想像される地獄の大魔王といったところだろうか。我々はご飯をいただくときに、食事を準備してくれる人や、生産物の収穫者に「いただきます」と手をあわせる。それにプラス、材料そのものにも「食べさせていただきます」と、感謝の気持ちを心から表したいものである。

 人間社会では、人間が「まな板の上の鯉」状態にになることがよくある。私が最も「鯉」の気分になったのは、産婦人科の診察台だ。
 先日も久々に健診でレディースクリニックに向かった。
「診察台にどうぞ……」
 優しい声の看護師さんに案内され、カーテンで仕切られた診察台のコーナーへ入る。今の診察台は、それなりにカラフルでリクライニングだし、ゆったりした感じだ。上半身と下半身の間には、やはり涼やかなカーテンがひかれていた。プライベートゾーンを診察してもらうのだから、患者の不安や羞恥心などに配慮してのことなのだろう。

 若い頃、初めて産婦人科を受診して、ど肝を抜かれたことがあった。大阪市内にある大病院だった。建て替え前の歴史を感じさせる古い建物で、院内は天井が高くて薄暗く、案内された診察室もレトロ感たっぷりのたたずまいだった。
「診察台に上がってお待ちください」
 初体験のため、頭の中では「ウワー、これが例の診察台なんや~!」と思いながら、看護師さんの細かい指示通りに、おそるおそる診察台に上がった。言葉では表現しにくい不安定な体勢で、ドキドキしながら周りを見渡すと、カーテンで仕切られてはいるが、どうも5~6人の患者が並べられている雰囲気だった。

 大きな太い咳払いとともに、お医者さまがお出ましになった様子である。耳に入る会話から察するしかなかったのだが、どうも右端から流れ作業のように診察が行われていくようだった。
 患者側からは想像するしかテはなかったが、医者側から見れば、ゾッとするような光景であったことは間違いないだろう。
 以来、2度の出産を経験し、その前後は何度も産婦人科を訪れた。時代性もあるだろうが、その度に感じたのが、診察台のお粗末さである。とにかく進化の遅れを感じずにはいられなかった。医療技術は日進月歩。人間の体の中の中まで見通せるような医療機器が開発され、信じられないような手術が行われ、何もかもがAIで処理される時代ではあってもだ。

 なぜ産婦人科の診察台だけは、ひと昔もふた昔も前のままなのだろう。きっと使う必要のない男性が設計し、自分で試すことのできない男性が作ったものなのだろうと、執念深く思ってきた。今回は長いブランクがあっての診察で、多少は過ごしやすくなった診察台にほんの少しは安心したのだが、診察台の形にこだわっていた自分の視野の狭さにも気づかされた。
 フランスで暮らす女性のエッセイで読んだのだが、フランスでは、産婦人科はとてもオープンな場所らしい。ほとんどの人がパートナー同伴で訪れ、1人だと受付で「あら、きょうは一人なの?」と聞かれたりするそうだ。
 診察室にも当たり前のように、パートナーと一緒に入る。しかも、診察台やベッドもオープンで、仕切りもなければ下着を置くカゴもない。さらに、診察台の上半身と下半身を分けるカーテンもないという。
 医師もオープンで、患者の顔を見てにこやかに診察をし、モニターを見ながら症状の説明をしてくれるそう。あまりに開けっぴろげで、かえってリラックスできるのだと思った。

 パートナーは胎児の時から成長を共に見ていくことで、父親になることを認識し、喜びを味わい、出産後の子育ても日本のように女性任せではなく、自然と2人で一緒にしていくスタイルができていくのだろう。
「性」への向かい方、感覚がまったく違う。ここまでくると、診察台がどうのこうのと言うのはもう問題外である。そういう言えば、日本在住の外国人女性を集めて意見を聞くテレビ番組で、日本で産婦人科の診察を受けた外国人女性が、
「あのカーテンって何なの?」と、笑いながら言ってるのを聞いたことがある。

 恥ずかしいことは隠蔽する体質の日本。今、小中学校の性教育も日本独特の「寝た子を起こすな」感覚で、停滞したままだという。一見、大人っぽく見える中高校生も、性に関しては体の仕組みもきちんと理解しないまま成長していくのだと思うとゾッとしてしまう。ここは先生方も「まな板の上の鯉」にならず、お上に向けてジタバタとしてほしいものである。



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