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母のらっきょう漬け

 「ポツンと一軒家」というテレビ番組がある。 番組で紹介されるのは、ディレクターらしき人が人里離れた山の奥に入り、さらに奥に続く細い一本道を車で走って走って、それでも道に迷いながら、ようやく辿り着くような山奥の一軒家だ。 そこまではいかないものの、母方の実家はそんな場所にあった。私の実家も、岡山県南西部にある田舎町だが、そこからさらに北部に向かってバスで40分。今、人気のお笑いコンビ「千鳥」のノブさんの実家もこの近辺らしいが、さらに奥へ。バスから降りて山道に入り、40分余り歩いてひと山越え、やっとたどり着くような場所にあった。

 幼い頃、姉2人に兄1人の私たち4人きょうだいは、その「(山)奥のおばあちゃん家」に行くのが楽しみで、歩く40分の道のりもワイワイガヤガヤ。道端の木々の葉っぱで遊んだり、少しでも早く行こうと走りっこしたり。
 脇に小さな池があれば殿さまカエルがいたり、草むらにはたくさんのバッタや、日陰の葉っぱにはカタツムリなどが当たり前のようにいた。
 道の向こうに続く広い畑で作業をする、ほっかむりをしたおじさんやおばさんが、クワを持つ手を休めて、私たちの賑やかな行進を眺めておられた姿は今も思い出される。

 歩いて歩いて、山のてっぺんらしきところを少し下ると、遠くにおばあちゃんが門の前に立って私たちを待ってくれている姿が見えるのだ。
「おばあちゃ~~ん!」とみんなで手をふり、前のめりになりそうに駆け寄って行くと、「みんな、よう来たなあ!」とこぼれるような笑顔で迎えられる。何よりも実家に帰った母がいちばん嬉しそうだった。
「おばあちゃん家」には、門の横に馬小屋があって馬が1頭。古い木製の門を入って、すぐ左手に「離れ』と独立した「お風呂」があった。右手の馬小屋の奥には、牛小屋があって大きな牛がここにも1頭。その奥が土間風の玄関になっていて、私たちはそこからドタバタと駆け込むのだ。

 母屋の前の庭は、脱穀などの農作業がしやすいように広々としていて、右奥には古い蔵があり、母屋の廊下の下では数匹のウサギが飼われていた。庭にはヤギがつながれ、離れの下には広いニワトリ小屋もあった。かつての農家の典型的な姿だったのだろうか。
 私たちきょうだいは、横手に広がる畑のスイカやトウモロコシを取りに行ったり、採れたての野菜を運ばせてもらったり。秋には少し離れた栗山で栗拾いをしたこともあった。
 それは豪快で厳格だった祖父は、山に狩りにも出かけていた。人の何倍も大きい声の持ち主で、お風呂に一緒に入ると、兄と私の背中を痛いほどゴシゴシ洗ってくれるのだ。もちろん口答えなど絶対できない人だった。後々にその小さな村の村長だったと人伝に聞いた時には、妙に納得できたものだ。
 恵まれた自然、時には過酷でもあった自然と、365日早朝から日の入りまで淡々と向き合う祖父母の暮らし。私たちには想像もできないほどの汗を流し、苦労があっただろうに、つましい暮らしの中でもいつも和やかで豊かな時間が流れていた。

 祖父母のもとでで長女として育った母は、とにかく働き者だった。田舎町で建具店を営んでいたわが家には、住み込みの職人さんが3人。祖父母に子ども4人、毎日11人分の食事の準備をしていたことになる。
 しかも、家具や建具の作業場から出る木くずやオガクズの処分のため、お風呂は焚きかま式。台所のかまどもガスコンロが普及した後々まで残して使っていた。
 当時の母の一日の仕事は、台所のかまどに火をつけることから始まったのだと思う。一人、薄暗いうちから起きて、ご飯を炊き、みそ汁を作って、漬け物樽から白菜や沢庵を出して食卓に添えた。当時は「ア~サリ、ア~サリ」と、アサリ売りがやって来ていて、母はよくボールを手に買いに走ったりもしていた。

 食事の片付けが終われば、庭や通路の掃き掃除、各部屋の掃除が待っていた。手ぬぐいを姉さんかぶりしてガラス戸や障子の桟にはたきをかけ、ほうきで掃いた後、廊下の雑巾がけが日課だった。そして、次は買い物に……。
 母の一日はどんなにあわただしかったことだろう。それでも暑い夏の日など、蚊屋の中で幼い私たちにウチワであおぎながら寝かせてくれていた記憶がある。今の私のていたらくな暮らしぶりを見たら、母はなんと言うだろうか。

 その上、日々のぬか漬けに始まり、初夏の梅干し漬けやらっきょう漬け、そしてショウガ漬け。秋になれば沢庵漬けから寒い時期の味噌の仕込みまで、ほとんどが手づくりだった。実家の地下室には母のつけた梅や漬物、味噌類の瓶詰めがズラリと並んでいたのを思い出す。
 指し物師だった祖父が建てた家で、家の中央には小さな地下室があったのだ。きっとかつての防空壕だったのだと思う。父が事務所代りに使っていた4畳半の下で、その部屋につながる廊下の一部が上下に開閉できるようになっていた。

 地下室とはいえ、5段程の板の階段を降りると、内の壁は基礎工事の石積みのまま。その石が棚の役目をしていて、その棚に母の瓶詰めが並んでいた。中に入るだけで、空気は地上よりヒヤッと冷たく、いくつもの漬物が混ざった特有の匂いがプーンとして、子どもにはあまり心地いい場所ではなかった。
 大雨の年には地下室にまで水が溜まったこともあったようだが、幼い頃、この地下室には何か悪魔か、幽霊が潜んでいそうな気がして、ひとりでは決して入れなかった場所だった。母の後から入っても、まず辺りを見回し、誰もいないことを確認せずにはいられなかった部屋。兄がいたずらをして押し入れに入れられることがよくあったが、「これ以上悪いことをしたら、今度は地下室に入れるぞ」という父の声に、私は兄以上にゾッとしたものである。

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  そうした暮らし方は、時を経ても私の体の一部に組み込まれているのかもしれない。
 これはコロナ禍までの話だが、春の気配を感じると毎年気になってしょうがなかったのがツクシ。あのスギナの仲間の土筆だ。今の私たちの住まいは、幸いにも緑豊かな地で、毎年、近所で土筆摘みが楽しめた。娘たちが成人した後も、夫婦2人秘密の場所で土筆取りを堪能するのが、春のいち行事だった。
 もちろん、シャキッとした繊維質の自然くささと、胞子のほろ苦さが絶妙な土筆の甘辛煮を頭に描きながらのこと。高齢の男女が危なっかしい斜面にかがみ込んでいる姿は、どう見ても土筆摘みなどというのどかな光景には見えなかっただろう。

 たっぷり摘んだ土筆は、家に帰ってからの作業がまたお楽しみ。チラシなどにザーッと広げて、1本1本ギザギザのハカマを取っていく。指先が土で茶色くなってしまうし、根気がいるので大抵は私の仕事だ。
 時間がたっぷりあれば、「以前は母や、小さい娘たちと一緒におしゃべりをしながらやってたなあ」「奥のおばあちゃん家の原っぱには、もっと肥えた土筆が群生してたなあ」などと、昔のことを思い出す優しい時間となる。
 それを終えると何回も水洗いをし、水切りをして調理に。お鍋に油をひいてサッと炒め、砂糖と濃口醤油で甘辛く煮つけるだけ。私は粉末だしもほんの少し加えて出来上がり。煮るとほんのちょっとになってしまうけれど、甘く苦い春の香りがして、3月の食卓に絶対欠かせない一品となった。

 また、梅雨の季節になって八百屋さんやスーパーに「らっきょう」が並び始めると、心が落ち着かなくなる。お気に入りのらっきょうを早く手に入れて、らっきょう漬けをやりたくなってしまうのだ。
 現在のお気に入りは、車で20分ばかり走った所にある産直売り場で売られている島らっきょう。沖縄の島らっきょうのように細身なものではなく、一般のらっきょうともまた違う丸っこい形で、カリカリとした歯ごたえがいいのだ。
 毎年、1キロの島らっきょうを手に入れると、料理研究家・堀江ひろ子さんの「失敗知らずのらっきょう漬け」という簡単な方法で浸ける。
 まず、大きなボールでザクザクと洗いながら土を落とし、つながっている株を剥がしてから、一粒ずつひげ根と目先を切っていく。薄皮も丹念にをむいたら、ざるに入れてベランダで数時間干して水気を飛ばすのだ。
 続いて、酢と水、砂糖、粗塩、とうがらしを一緒に煮立たせ、耐熱性の容器に入れたらっきょうの上に、一気に注いだら出来上がり。
 これだけで間違いなくカリカリに仕上がってくれる。失敗しないからこその、毎年の作業。梅干し漬けにも何度か挑戦したが、数日必要な天日干しがうまく続かず、やめてしまった。

 らっきょう漬けでのひげ根を切る作業は、切っても切ってもなかなか終わらず、心が折れそうになる時もある。それでも6月になると毎年必ずやりたくなってしまうのだ。
「なぜだろう」とよくよく考えてみると他でもない。86歳で亡くなった母と、時間を超えてつながれるような気がするからである。
 何もかも手づくりだった母の足元にも寄れないが、今の私が失敗することなくできるらっきょう漬けで、同じ作業をしていると、元気な頃の母とつながっていく気がして嬉しくなれる。レシピなど教わったことはないのだが、母と同じ時間を共有できているような気分になれるのだ。
 つくしの甘辛煮にしてもそう。普段のご飯づくり中でも、おにぎりを握れば、母が大ザル一杯に数えきれないほどの俵形の海苔お結びを作っていたのを思い浮かべ、鶏の肝煮を炊いていたら、母の味付けは甘かったなあと蘇る。卵焼きも、筑前煮も、白和えも……。

 母娘の関係というのは、こういうものなのではないだろうか。幼い頃から毎日、毎日口にした手作りの母の味。さまざまなおかずやご飯の味を通しての、目に見えないいくつものつながりが、かつての懐かしい光景や温かい思い出、喜びなどを引き寄せてくれるのだ。
「食」は、優しくて太い糸で親子を、あるいは人生をつないでいくものなのだろう。いずれは娘たちが、同じように何かの料理をしながら、小さなつながりを見つけ出してくれたら嬉しいなと思う。

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