見出し画像

忘れられない看板


 旅に出で見知らぬ小さな町を歩くとき、いろいろな看板を見る楽しみがある。
アートフルな案内板もあれば、ゆるキャラのほっこりタイプや、おしゃれな横文字、案内の文章を長々と書いたものもあって、「クスッ」とひとり笑いするのも楽しい。また、京都など歴史ある老舗が並ぶ軒先に大きな木製の数珠がかかっていて、「あー、数珠屋さんなんや!」と商品そのものの形を見せる実物看板を探すのも面白いものだ。

 海外での店探しでも、重宝するのが看板だ。クロワッサンの看板が目印のパン屋さん、白い泡がこぼれそうな大ジョッキならビアホール、大きなロブスターが描かれていたらレストラン、ぶどうの看板ならワイン関係の店と一目瞭然。
 中にはちょっと想像がつかないのものもあって、おじさんが舌を出したり、口をあけている「舌出し男」や「口あけ男」は、オランダ特有の看板で薬局のシンボルだそう。
 また、日本ではあまり好まれないヘビも、ヨーロッパでは知恵のシンボルとして、あるいは医学の神を象徴する生き物として尊ばれ、看板に描かれていれば薬局を意味するという。

 以前、海外に旅した時、小さな立て看板にシンプルにメニューだけが書かれたカフェを見つけて、ランチにと立ち寄ったことがあった。
「どんな店かな?」と軽い気持ちで黒いドアを開けると、店内は妙に薄暗く、中にもう一枚黒いドアがあって、黒いスーツにサングラスのいかついガードマン風の男性がスッーと現れた。
「えっ! ヤバイ店やん!」
 と直感したのに、すぐ帰るわけにもいかず、「メニューを見せてもらえますか?」なんて、拙い英語で取り繕ってしまったのだ。
 胸板の厚い大男のガードマンは、ニコリともしないでメニューを持ってきてくれた。私は内心ドギマギしながら、フムフムと読むふりなどして笑顔で「ノー、サンクス……」。恐怖の数分間だった。

 人間にとって、看板といえば「顔」だろうか。
顔は千差万別、十人十色。不思議なくらいいろんな顔の人がいるものだが、選べるものなら男であれ女であれ、やはり美形に生まれた方が何かと有利である。
「性格だ」「愛嬌よ」とはいってみても、第一印象は何といっても顔。中には美形とはいえ、底意地の悪さが顔に出ている人もいたりするが、そういう特別の方は別として、なぜか美形の友人が多く、常に引き立て役人生を歩んできた私が、身にしみて感じる何十年来の結論でもある。

 最近は、プチ整形や最前線の美容法も流行っていて、ほんの少し顔をいじっただけで、人生観も変わり、異性の目も変わったという人も多い。ただ、顔をさわることに抵抗があるという人も多いのでは? 表情だけは自分の努力で何とかなるものらしい。
 聞いた話によると、顔には表情筋がたくさんあって、笑うときに使う筋肉は8つくらいなのに、怒ったときや、辛いとき、イヤだなあと思うときに使う筋肉は20以上あるそうだ。それを毎日、頻繁に繰り返すとどうなるのか。恐ろしいことに、超スピーディーに「イヤだなあ顔」や「怒り顔」になってしまうという。。

 女性は特に表情が顔に出安いのではないだろうか。若いうちは肌にも弾力があり、夢や希望、楽しみをいっぱい抱えているから、そんなに気にもならないのだろうが、高齢になるとそうはいかない。もし自分の力でどうにかなるなら、「穏やかで優しい表情」のほうがいいに決まっている。さあ、笑おう。

               ●

  私には忘れられない看板がある。
 もう遠い昔の話。短大時代、1年ほど京都に暮らしたことがあった。
 当時、夢中になっていたジャズ喫茶への帰り道、京都東山の小さな文房具屋の軒先に、看板というか小さな紙きれが風に揺れているのを見つけた。気になって足を止めると「洋裁おしえます」と素っ気ないほど小さな文字で書かれていた。

 これが縁というものなのだろう。それまで洋裁のことなど頭の片隅にもなかったのに、なぜか急に興味がわいて、ためらうことなく店の戸を開けた。「すいませ~ん!」と声をかけると、「はい」と奥から穏やかに現れたのは、大柄の中年女性だった。
「あのー、洋裁を習いたいんですが……」と伝えると、その女性は笑顔をつくることもなく、「来週の月曜日からどうぞ」と素っ気ない言葉を返してきた。その淡々としたやりとりが「先生」と私の出会いだった。
 
 当時の私がなぜ習いにいこうと決めたのか、今ではどうしても思い出せない。でも、私は翌週から週一で通い始めたのだ。
 小さな文豪具店の奥に6畳ほどの和室があって、そこに大学生や社会人など7~8人の女性が通って、思い思いの洋服を縫っていく。ミシンを踏む人もあれば、型紙をつくる人や手縫いに精を出す人も。
 先生を囲んでおしゃべりを楽しみながらのゆるい教室だった。のほほんと短大に通っていた私には、違う世代の人たちの生活や考え方にふれる場にもなった。

 先生は東京生まれの東京育ちで、長い京都生活にもかかわらず、言葉も気性も江戸っ子のまま。母と同年代にしては長身で、背筋をシャンと伸ばして、辛口にピシッピシッとものを言う人だった。
 その反面、「ねえ、ねぇ、ちょっと面白いと思わない?」が口癖で、ほんの少し興味があるものを見つけると、じっとしてはいられない性分。文房具屋の奥さんも洋裁の先生という肩書も、あまり似合わない人だった。
 
 それから短大を卒業し、コピーライターになりたいと小さなデザイン事務所を転々とした3年ほどの間、私は母の懐に帰るように先生のもとに通いつめたのである。
 先生は褒め上手で、才能などあるやらないやら分かりもしない私ををつかまえて、「あなたは将来、きっと売れっ子のコピーライターになれるわよ」だの、「口の中でソッと甘さの広がる砂糖菓子みたいな子だね」と、暗示にかけるように繰り返すものだから、私も居心地の良さに自然と足が向いたのだと思う。
 
 エスニック風ブラウス、小さなボタンを30個もつけた赤い花柄のワンピース、大きなポケット付きの茶色のワンピース、Aラインのジャンパースカート、コールテンのパンツスーツ、友人の披露宴用の淡いブルーのお嬢さま風ワンピース、母のボウブラウス……、そして、最後には自分のためのオーガンジーのウエディングドレスまで、今では想像もできないほどの洋服を精力的に縫いあげた。

 希望する仕事場がなかなか定まらず、次の事務所が決まるまで空白時間ができると、「うちに来てればいいじゃない」と不安定な小娘の居場所を提供してくれた。 
 その間、絵の好きな先生に連れられ、動物園や近所の風景を写生して歩いたり、本物のヌードモデル(オバサン)をスケッチする夜間の絵画教室に通ったり、岡崎周辺を歩き回った。
 また日の高いうちから、古い銭湯を探索しようと洗面器片手に繰り出したり、階段タンスのある京らしい部屋に泊めてもらい、夜中まで話し込んだこともあった。故郷の母とは違う、同世代の友人やボーイフレンドとも異なった面白さや楽しさがあって、やさしい空気が流れる時間だった。
 
 私はこの出会いで、ささやかな日常の何でもを楽しみながら、前向きに明るく生きるためのエッセンスを学ばせてもらったのである。
 それまでの私の周りの大人の女性といえば、女としての役割に縛られ、その拘束にも気づかず、周りの目や世間体を気にする人ばかりだった。グチらず、こぼさず、良き母であろう、良き妻であろうと、しんどさを顔に出さない人がほとんどだった。

 先生はそれを否定することもなく、自然に、私の目の前から取っぱらってくれたのだ。
「やりたいことはどんどんやらなきゃ」
「美しいものをたくさん観て感動し、おいしいものはどんなことがあっても食べてみなくっちゃあ」と。
 その前向きな姿勢が、私のその後の生き方を大きく左右したことは間違いない。
 
 それから私が結婚して、仕事や出産で足が遠のき、2人の娘を連れて再訪したのが10数年後。親子の対面のように涙を流す私を笑顔で迎えながら、
「まあ、こんないい子たちによく育てたじゃないの」 とまた褒めてくれた。
 そして、私の小さな仕事一つひとつを手に取り、
「こんな仕事ができるようになってよかったね」と喜んでくれた。
 旦那さんを看取り、高齢になっての不自由なひとり暮らしの中で、京都取材のたびにひょっこり立ち寄る私を「よく来たじゃないの」と、気丈な母のように迎えてくれた。
 
 それが、「私ね、もうそろそろダメなような気がするの」と気弱な言葉が出るようになって間もなくだった。何度電話をしても通じず、案じていた矢先、脳硬塞で倒れたという知らせを東京住まいの息子さんからいただいた。
 意識は回復しても言葉が出ず、体が不自由なってしまった先生は、見舞う私に喜びながらも、手真似で「忙しいのだから早く帰れ」といってきかなかった。ベッドの柵にさり気なくかけられた「拘束ベルト」も見逃せなかった。
 きっと「ねえねえ、楽しいと思わない?」と言えなくなった自分をあまり見せたくないのだろう察した私は、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
 
 私にとって、それが先生との最後の出会い。訃報が届いたのは、4~5ヶ月後。通夜に駆けつけたが、京都のしきたりとかで対面させてもらえなかった。その3か月前には実の母を亡くしたばかりだった。
 後々に先生の遺作となった句集を開いてみた。
 そこに残されていた短歌2首。
「エッセイに先生の事書きました コピーライターの彼女の年賀」
「若きらに洋裁教える刻過ごす その日日のさま書きてありたり」  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?