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占い

 3月とはいえ、まだ肌寒い風が吹く日、京都東山の「五社の滝神社」に向かった。
 東福寺の東側に、民家に埋もれるようにある小さな神社だ。今はパワースポットともいわれているようだが、興味本位でいくような場所ではないらしい。伏見稲荷のお滝行場の一つで、観光とは一線を画す場所だ。

 古い石鳥居をくぐると、その先には小さな石鳥居や石灯篭が重なるように並んでいる。境内下に流れる川の音をたどるように、危うげな狭い石階段を降りていくと、姿をあらわすのが五社の滝である。

 足元は古い岩場になっていて薄暗く、雨の日でなくても滑りそうで気が抜けない。左横の岩場には蝋燭と線香を祀る場があり、滝から勢いよく流れ落ちる水の音が、静寂を巻き込むかのような荘厳な雰囲気をつくっている。時に修行を行う人の姿もあって身が引き締まる思いがする。川の水は、東福寺の通天橋の下を流れ、琵琶湖疏水をくぐって鴨川へ流れ出るそうだ。
 畏怖の念とはこういうことなのか。初めて訪れた日、張り詰めた空気に圧倒され、研ぎ澄まされた霊気のようなものに恐怖を感じて足が震えるようだった。

 夫は、その時期、夫が大腸の手術をすることになっていたのだ。東京に住む友人に久しぶりに電話をし、近況報告として話したところ、逆に「病院選びは大丈夫?」と聞かれた。
「そんな大事なこと、占ってもらった方がいいよ」
「私がいつも相談している、信頼できる〝五社の滝″の占いのおばさんを紹介するから」と。

 私は、かなり迷った。非科学的なことにすがる問題なのかと思ったからだ。当の本人はどう思うのだろうと打ち明けたところ、目の前に迫る不安を抱える夫は相談に行ってほしいと言った。ならばと、月に一度は訪れるという友人と共に行くことにしたのだ。

 五社の滝神社の真ん前に建つ占いのおばさんの住まいを訪ねた。あまりにつましい小さな住まいで、高齢の女性が穏やかに笑顔で迎えてくださった。室内には、遠方からという他の相談者が数人。
「お礼はお気持ちだけで結構です」と、最初から相談者に気を遣わせない配慮が感じられた。

 私の番になって相談内容をおばさんに伝えると、手渡されたのが初詣などでおみくじを引く際に使うような古い大きな筒である。
「筒を振ってお好きな木の棒を引いてください」
 震える手で筒を振り、恐る恐る木の棒を引くと先に番号が書かれていた。
 おばさんは神妙に番号を確認し、江戸時代のものではないだろうかと思われるような古い絵付きの本を手に、同じ数字のページをめくった。
 悪い勘は当たるもので、見せられたページには良いことが書かれていなかった。「今の病院は変えた方がいいようやね」
「電話でいいから、他の病院候補を出してきなさい。病院へ行くのにいい日時もみてあげますよ」
 おばさんの優しくて温かい言葉に感謝しながら、心も身体も震えていた。

「帰りに五社の滝神社にお参りしてくださいね」と、うろたえる背中を押してもらえたようだった。
<おばさんは、五社の滝神社の仕え人なのだろうか>
 頭の中は悪い渦がぐるぐる回っているような不思議な感覚で神社に向かい、重い足を踏みしめるように修行場に降りると、おどろおどろしさを感じながら蝋燭に火をつけ、震える手を合わせた。
「どうぞ手術がうまくいきますように!」
 後に二度と感じることのない恐怖の数時間だった。

 それから20年。夫は元気に暮らしている。おばさんはお会いした数年後に亡くなられてしまったが、今も両親のお墓参りに京都・東山本廟に行くたびに、五社の滝神社にも足を伸ばして手を合わせる。私たち夫婦にとって、心安らぐ場となっている。

 占いは古代弥生時代からあるそうだ(『BRUTUS』)。
 鹿の肩甲骨に火のついた棒を押しつけ、骨のひび割れの形で吉凶を判断する「太占(ふとまに)」というのが、日本最古の占いだそう。また、当時は容疑のある人には熱湯の中に手を入れさせ、正しい者はただれず、やけどをすれば罪人と判断したとか。かなり野蛮な占いが行われていた。
 平安・鎌倉時代になると陰陽師が登場し、明治・大正に入って占いは大衆化していく。いつの時代にもカリスマ占い師はいるようだが、今や四柱推命や姓名判断から、手相占い、占星術、タロット占い、はたまた星占い、夢占いなどまで、占いは大人気。海外にも古くからさまざまな占いがあるが、時代を超え国を超えて人は大事な決断をする時、占いに頼ってしまうもののようである。

 むか~し、まるで仙人のような占いのおばあさんが我が家を訪れたことがあった。真っ白な長い髪を後ろで一つにゆわいた、見るからに祈祷師のようなおばあさんだった。一つだけ覚えているのが、「この家のおばあさんは福をもたらす女性だ」と言われたこと。
 私たち家族は、「えっ、うちのおばあちゃんが?」と全員首を傾げたと思う。とにかく超マイペースで変わり者の祖母だったからだ。
 
 夜中、家族が寝静まると、なぜか目が冴えるらしく、お決まりの「夜遊び」が始まるのだ。テレビ番組が終了すると、こおり砂糖を舐めながらスタンドの灯りでひとり花札遊びをし、飽きたところでお風呂へ。なぜか腰湯を楽しんでいた。
 高校生の私が夜更かしをして歯磨きをしようと洗面所へ行くと、隣の浴槽に人の気配がするのだ。ドアの隙間から覗き見ると、真っ暗闇のお風呂で気持ちよさそうに腰湯をしている祖母の姿があった。
 その後は夜中のお散歩。ソッと裏玄関から出て、家の近所をひと回りし、灯りのついた派出所やタクシー会社をのぞいて、夜勤のお巡りさんやタクシー運転手さんに声をかけていたそうだ。とはいえ、かなり早起きで、「昨夜は眠れた、or眠れなかった」の話を母は毎朝聞かされていた。

 午後はテレビの歌舞伎中継を観て、三波春夫のレコードを小さなプレーヤーで聴きあきると、父が営む建具店の店先にマイ椅子を持ち出して座り込み、行き交う人を観察するのが常だった。
 すぐそばにあったスーパーからの買い物帰りの人を見ては、「スーパーは、よう混んどりましたか」と話しかけてみたり、見ず知らずの人に「すいません、お兄さん。今、何時ですか」と聞いてみたり。夏などお隣の洋服屋さんのご主人が道路に水まきを始めると、「ついでに、うちの前もお願いします」とくったくなく頼む人だった。
 そして、自然に始まるうたた寝。冬はお天道さまに当たらねばと、わが家側の日が陰れば、向かいの化粧品屋さんの店先にまで移って、まるでスポットライトを浴びるようにお昼寝をしていた。母はいつもご近所にお礼を言って回っていた。

 その祖母が「福ばあちゃん」?
 家族のだれもがすぐには納得できなかったのだが、それまでの度を超した天真爛漫な行動を思い返し、「ひょっとすると、そいうこともあるかもしれない」などと思い違いをしかねない人でもあった。
 そういえば、祖母が92歳で亡くなるまでの間、父の仕事関係の人や近所の人、古いおつき合いの人などが三々五々出入りする賑やかな家であったことは確かである。 ただ、私たちきょうだいの間では「私ら、おばあちゃん似でなくてよかったね」と、今でも昔を思い起こして胸をなで下ろす。

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