ペットロスと向き合ってみた

お迎えしたゴールデンハムスターのどんぐりは、とにかく前の光忠と何もかもが違う子でした。種類が違うから当たり前かもしれませんが、ハムスターでも性格がちゃんとあるというか、光忠はおとなしい子で触られても暴れることもなくされるがままだったんですが、どんぐりはとにかく…見知らぬものを見つけたら即噛むという凶暴なハムかと思いきや、立ち上がりかけたところに息をちょっと吹きかけたら大慌てで後ろにひっくり返ったり、凶暴さとビビリを同居させたような性格でした。なので、自分で買っておいて非常に身勝手な意見として「ハムスターだけど光忠じゃないなあ…」というわがままな感想が出ました。違うのは当たり前なのに、心のどこかで新しいハムを飼えば、光忠がそのまま帰ってくると錯覚していたかもしれません。なのに違うということで「なんか思ってたんと違う…」と思いながらも「やっぱり光忠はいなくなってしまった」というのが逆に思い知らされてつらいと思いつつも、やはり子供のハムスターは見ているだけで可愛らしくて和み、久しぶりにほっこりした気持ちになりつつも、用意したケージ(というか地震の時に光忠と一緒に実家に避難した時に、実家で使用するために実家用の光忠のケージを購入していたので、新しい子が来たらこれを使おうと思っていた)が段差が多い仕組みで子ハムが怪我をする可能性が高いことに気づき、慌てて光忠が亡くなる寸前まで使用していたケージを洗ってどんぐり用にすることにしたのですが、ケージを洗うことが、この世に残っている光忠の成分を自ら消しているようで、それがメンタル的にすごくきました…。あまりにもつらすぎて、この先どんぐりを心からかわいいと思える日が来るのか不安になるほどでした。でも、ペットを飼うということは可愛がることだけではなく、最後まで面倒を見ることが義務!!!と何度も自分に言い聞かせる日々でした。

そうして現在、もう二ヶ月経ってしまったわけですが、どんぐりを飼うことによって、ペットロスはどうなったかというと、ありがたい事に前の文鳥の時にあった異常な行動は起こさないで済んでいます。時折最後を思い出して悲しくなることもありますが、いた頃はブラック企業つとめててしんどかったけどあの子の存在に救われたなあと思うことで耐えれています。どんぐりもだいぶ噛むことは減ってきて、カリカリごはんのカサカサ言う音で「ごはんのじかんだ!」とわかるようになったのか、寝てても起きてご飯をねだるようになってきました。そこが光忠とすごくよく似ていて、これはどんぐりに失礼かもしれませんがおかげで喪失感がそこまでないのかもしれません。かと思いきや、かごを脱走したときは光忠は深夜遅くまで起きていないと見つからなかったのに対し、どんぐりは脱走すると何故か部屋の真ん中に堂々といるという謎行動をするという正反対な部分もあって、これはこれで面白いなと前向きに捉えています。新しいことの生活が始まったことでいろいろ忙しくて悲しむ暇がなかったというのも大きいかもしれません。しかしそれはそれでなんだかあまりにも光忠を蔑ろにしていないか?という自問自答に悩まされる事もあり、自分自身のその心の声に押しつぶされそうにもなります。

なので結論としては、亡くなったこの後にすぐ新しい子をお迎えするというのは効果があるかと言えば、「ある」けれども、前の子の事を偲ぶ時間というのはやはり必要で、その偲ぶ時間をきっちり経ていないとしんどい。というのが私の出した結論でした。人間のお葬式でも初七日や四十九日の法要というのも、その故人に対する思いをうまいこと処理するために必要な時間なのかもしれません。

結果としては結構中途半端で、人に勧めにくい感想になってしまいましたが、すぐ次の子を飼う以外にも「光忠の遺毛をレジンに入れたアクセサリーを作って持ち歩く」とか「生きてるうちに写真をたくさん撮っておきアルバムを作る」「そのデータでPCやスマホなど自分が使うデバイスの壁紙を作る」なども結構効果があったと思います。そして今回こうやって考えたことをまとめたことも、自分の考えた事を違った視線で考えたりしたのもある意味悲しみからの逃避行動になったかなと。面白い文章にはならず、自分の吐き出しになってしまいましたが、ここまで読んでくださった方いたらありがとうございました。



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