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『チィファの手紙』別府ブルーバード劇場 上映、岩井俊二監督リモート舞台挨拶レポと考察 ~なぜ、岩井俊二作品が、こうまで自分に刺さるのか?~


11月28日、地元の映画館、別府ブルーバード劇場で『チィファの手紙』の上映後、ZOOMによる岩井俊二監督のリモート舞台挨拶があったので参加。
いつもは、舞台挨拶のレポートをまとめる形が多いが、今回は
「なぜ、岩井俊二監督作品が、こうまで自分に刺さるのか?」
を考えてみた部分がメインになりそうな気が。
これをまとめている時点で、年を越してしまい、1ヵ月くらいでいけるかなと思っていたけど……

甘かった。


チィファの手紙上映、岩井俊二監督リモート舞台挨拶決定


岩井俊二監督のリモート舞台挨拶が、足繫く通う別府ブルーバード劇場で行われることを知った時、記憶が24年前に跳んだ。
当時は、横浜市港北区綱島で、高校時代の同級生の家に転がり込んで居候中。音楽に関わる仕事に就くにはどうしたらいいのか、本気で考えていた頃で、実写映画には一切興味が無かった。邦画に良質なエンターテイメント作品を探すのは難しく、映画1本を通して観るのに苦痛を感じるくらいだった。幼少期に、マンガ家になるのが夢だった自分にとっては、マンガやアニメの方が、作品としてのエンターテイメントとしてのクオリティが高いと感じていた。

記憶が曖昧だったが、youtubeにあがっている動画を観て記憶が蘇る。
NHKの『ソリトン』という番組に岩井俊二監督が出演していた回があり、岩井監督作品『Love Letter』の絵コンテを紹介していて衝撃を受けたのを思い出した。
これは後々に分かるのだが、印象的な中山美穂が、降る雪を見上げるシーン。これが、岩井俊二監督の絵コンテそのままを狙ったシーンだということを知った時、心底びっくりした。映画って、ここまで計算されて撮られているものだったのかと。

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この番組内で公開間近の『スワロウテイル』が紹介され、俄然気になる劇場作品となる。

公開されると、綱島から映画を観るために渋谷へと向かった。東京で観る初めての映画だった。この時、ちょっとしたエピソードがあるのだが、長くなりそうなので割愛。
劇場は満席で、通路に座っての鑑賞。映画館の通路に座っての鑑賞なんて、生涯で初めてで、最初は座り心地の悪さ、床の冷たさが気になって映画に集中できるか不安だったが、上映が始まると『スワロウテイル』の世界に引きずり込まれていった。

縦横無尽にスクリーンを駆け抜ける誰もが、立ちに立ちまくったキャラクター達。
抜群の存在感、圧倒的な音楽の才能を魅せつけるグリコ。劇中で『マイウェイ』を歌うシーンでは、邦画を観て久しぶりに泣いた。
道半ば、別々の道を選ばざるを得なくなる悲運の火飞鴻(フェイホン)。哀愁漂う退場シーンだった。
裏社会でのカリスマ性を、センスあるバイオレンスシーンで観るものに刻みつける劉梁魁(リョウ・リャンキ)。作品中1番感情移入する役柄だった。そして、謎に包まれた狼朗(ラン)の存在に、終盤グッとフォーカスされ、ラストに近づく物語には緊迫感が漂う。
ラストシーンになると、劉梁魁に魅せられた自分が、狼朗の強さを十二分に知りつつも、予想の外れた結末になるよう、手を合わせて祈るばかりだった。
もちろん、主人公のアゲハ役伊藤歩は、新人らしい新鮮な演技と、新人らしからぬ存在感で、非凡さを発揮する。

自分の中で100点を付けた邦画は3本あるが、『スワロウテイル』は、その中の1本。そして、東京という街で、自分の思い描くクリエイターとしての成功者、憧れの存在が、岩井俊二監督になった瞬間でもあった。
その後、綱島、登戸、府中と、住居を転々とし暮らしていくのだが、あの頃の自分は、
「環境が変われば成功できるのでは?」
と、地元を後にし、何とか東京でチャンスを掴みたい一心の毎日。
自分の憧れる世界への繋がりをこの街のどこかで探せないものかともがいていた。まさか、24年後の別府市で、リモートとはいえ岩井俊二監督と繋がることができるなんて、あの頃の自分は想像だにしなかっただろう。

岩井俊二監督は自分にとって
言葉で表せないくらい特別な存在だったのだ。



『チィファの手紙』上映当日


別府ブルーバード劇場、舞台挨拶時には珍しく、土曜日の昼11:00からの上映後のリモート舞台挨拶だった。別府ブルーバード劇場、初のZOOMによるリモート舞台挨拶。『チィファの手紙』が、『ラストレター』の脚本とほぼ同じで、日本と中国両方で撮影されていたことは知っていた。ただ、『ラストレター』は、劇場上映を見逃した作品だったため、先に『チィファの手紙』を観ることになるのが、少し残念に感じていた。できれば、『ラストレター』を観てからの鑑賞が良かったと思っていたのが本音だった。


舞台挨拶のある当日、少し余裕を観て劇場へ向かう。劇場へ着くとお客さんは、思ったほど多くない。余裕を持っていつも座る2列目の席を確保できた。『チィファの手紙』の上映が始まる。
これを書いているのは、12月に入ってなのだが、この段階でレンタルで借りて『ラストレター』は鑑賞済み。それを踏まえて、『チィファの手紙』を先に観れたのは、逆に良かったなと今は思っている。
『ラストレター』の出演者が、そうそうたる面々だったこともあるが、中国版の『チィファの手紙』に出演されている役者に関して、前知識がほとんど無いため、役者が持っている印象に引きずられず、物語に純粋に没入できたなと改めて感じる。

また、『チィファの手紙』では、『ラストレター』には入っていない、ちょっとしたエピソードで、主要キャラクターの『チャン』の人物描写、日々の暮らし振りを掘り下げてるなと感じるシーンがあり、そういう差分がかなり効いていた。そして、予想以上に胸に迫り、泣けてしょうがなかった。
「あぁ… 自分がのめり込んだ、岩井俊二作品そのものだな」と。
それが何なのか、観ている時には具体的には、分からなかったし、説明もできなかった。

ボロボロに泣き崩れて、上映が終了。
劇場スタッフであり、映画ライターの森田真帆さん、同じく劇場をサポートしているヒロキくんがリモート舞台挨拶の準備を始める。
今回、あらかじめ質問を紙に書いて、森田さん、ヒロキくんに渡し、トークが一段落した所で、岩井俊二監督に伺うスタイル。
劇場内にメモ用の紙を全員に配っていた。
舞台挨拶用のリモート接続の設定の方は、岩井監督との接続を試みるも、最初は音声が出力できずに、悪戦苦闘。何度もやり直してなんとか繋がった。

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上手く接続できてないので、観客席は右に90度回転したままだが、小っちゃいことは気にしない。次の上映もあるため少し慌てて、やっつけ感は否めなかった。普段は、舞台上で登壇者を迎え、舞台挨拶、トークをすることが大半なのだが、今回のリモートでは、劇場内でWi-Fiの電波が弱いようで、森田さんは映写室から司会を行った。ブルーバード初のリモート舞台挨拶ということもあり、森田さんは、いつもにまして、落ち着きがない様子。
なんとか、セッティングができたようで、トークが始まる。

森田さんと、岩井監督は、かなり古い付き合いで、トークもかしこまった様子もなく、自然に始まる。日本版の『ラストレター』と、中国版の『チィファの手紙』の撮影時期について尋ねる森田さん。
日中、ほぼ同じ時期に撮影を行ったが、上映は配給で差が付いたとのこと。
2018年の8月末には撮影が終わり、中国ではその後、1ヵ月半で公開までもっていったそう。
『チィファの手紙』では、岩井俊二監督、プロデュース、脚本、編集、音楽を担当しており、撮影後の作業が、気が触れるような期間だったとのこと。
最初のシーンの音楽は、実験的、挑戦的な作り方をしたと語っていた。
「ほぼ、眠れてなかったんじゃないかな?」
と淡々と話す岩井監督。
「岩井監督が感情的に語るとこって、見たことないなぁ」
と、ふと思う。
作品を作る上で、感情的になったりしないのかな? と、監督の受け答えを聞きながら考えてしまった。『ラストレター』の方では、作品全編にセミの声が入っていて、その編集の仕上げでは、一旦、録ってあるセリフの音から、本物のセミの声を消して、5.1chサウンドで貼り直したという手の込みよう。効果音ひとつとっても、映画って手が抜けないと思ったエピソードだった。

『チィファの手紙』は、撮影時の苦労は無く、脚本のローカライズ(中国の風土、風習、時間的設定のブラッシュアップ)が最も苦労したとのことだった。日本的なアイデアを出すと、中国の文化と異なるため却下されることが多かったとか。特に、日本の30年前と、中国の30年前に生活様式等、かなり差があり、違う所が出てきて困ったそう。(中国の30年前はびっくりするくらい昔だったと)
そう考えると、ここ30年での中国都市部の変化のスピードは、生活環境、経済的な成長等、凄く目まぐりしいスピードだったんだろうなと、改めて感じる。

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映画制作の話が落ち着くと、劇場内から集めた質問のいくつかを監督に伺う。
「今回の作品のように、監督にも辛い失恋経験があったのでしょうか?」
(みたいな質問だった気が…)
という質問に対して
「失恋の体験がなければ、このジャンルに打って出ない!」
との回答、少し劇場内に笑いが起こった。
今、自分の大学時代の恋愛経験をベースにしつつ、『チィファの手紙』でいうところの之南、『ラストレター』での未咲の目線で、大学時代のエピソードをまとめた小説を出版準備しているそう。『ラストレター』撮影時、福山雅治さんが手にしていた小説、『美咲』は、その中に本当に岩井監督が書いた文章が載っていたそうだ。ただ、紛失した時に困るため、全文は載せず、所々白紙状態だったとか。

『チィファの手紙』は、『ラストレター』のように、雪景色で撮りたかったのだが、中国では雪が降る場所がほとんど無く、雪を狙うとそうとう北上しなければならなかったので諦めた話が続く。
またしても、ローカライズの話になるが、之華の回想シーンでの30年前くらいの出で立ちなんかの雰囲気が、まさにジブリ作品の『おもひでぽろぽろ』を感じさせたと語る岩井監督。
実際に中国の30年前は、もっと古い感じで時代差があるとのこと。
全体的に、日本文化的なものを、何とか中国の状況に落とし込んだ作品になったようだ。

後、いくつか質問項目があったのだが、何せこれをまとめているのが、舞台挨拶があった日から、1ヵ月が過ぎようとしているため、よく覚えていない。ちなみに、岩井俊二監督に、特別な思いがある自分がどんな質問を書いたかというと…… 思いが溢れすぎて、スタッフの回収に間に合わないという大失態。
劇場を出る時に、森田さんに
「思いが溢れすぎて、質問書くの間に合いませんでした」
と話すと
「事務所の方に質問書いた紙は届けるようになっているんで、預かりますよ」
と言われ、そっと手渡した。


「なぜ、岩井俊二監督作品が、こんなに胸に刺さるのか?」



劇場を後にするが、岩井俊二監督に質問できなかったことよりも、これ程まで岩井俊二監督作品が、自分の胸に迫る事実にびっくりしていた。『スワロウテイル』だけが特別な作品であって、その他の岩井作品は、もう少し冷静に観れると思っていたからだ。
岩井俊二監督作品全てが、自分に刺さる訳ではなかった。『花とアリス』に関しては、作品自体の印象よりも、蒼井優と鈴木杏の演技に意識が行き、女優としての旬な時間の切り撮り方が上手だなという印象だった。しかし、『スワロウテイル』や『チィファの手紙』は、物語自体が非常に刺さる作品だった。

似たような感覚になる監督作品がもう一つある。新海誠監督の『秒速5センチメートル』、『言の葉の庭』だ。新海誠監督は、岩井俊二監督との対談で
「アニメーションで、岩井作品を表現してみたかった」
と、ストレートに言っている通り、差し込まれる風景や、人物描写、シーンの魅せ方など、岩井作品に通じる所を多く感じる。
ただ、新海誠監督を世間一般に認知させた『君の名は。』と『天気の子』は、手法が変わった印象を受ける。これは、『秒速5センチメートル』、『言の葉の庭』の小説版にもいえることだが、最後に残る余韻が、喪失感だけではなく、少しの救いや、人との繋がりで補完され、作品に幕が下りていると感じるのだ。
それは、例えるならば、インディーズ時代に応援していたバンドが、メジャーデビューすると、今までマニアックに作り込んでいたアルバムが、幅広い層をターゲットにし、売れ線の曲が多くなり、もの凄くバランスの取れた作品になっていて
「売れて有名になって嬉しいが、自分の好きだったバンドとは思えない…」
みたいな印象。

とりあえず、新海誠監督の話は置いといて、自分の中で大きな存在だった岩井俊二監督の『スワロウテイル』と、今回鑑賞した『チィファの手紙』の類似点がないか考えてみた。
ここで、このレポを読んでいて、岩井俊二監督作品を観ている人は、
「普通、比べるなら『Love Letter』と『チィファの手紙』だろ?」
と思われるかもしれないが、実は『Love Letter』を観た当時、それ程、心揺さぶられなかったのだ。
観たのが二十代前半だったというのもあるが、物語自体ちょっとピンとこないし、ああいう青春時代を送ってないため、自分の中で感情移入できるポイントが極端に少なかったのが要因な気がする。
『スワロウテイル』と『チィファの手紙』は、物語設定、登場人物等、似ても似つかない物語なのに、どこか自分の琴線に触れる核の部分は、同質のもののように感じていた。

そこで、『チィファの手紙』を観て主人公のチャンに感情移入できたかを改めて考えてみると、彼が『何者にも成り得ていない』という現実に生きている点が、非常に大きいと思う。
小説家としてデビューしているが、書いたのは1作のみ。それも之南(チィナン)との思い出を題材にして、今でもその頃を引きずっているようにも見える。そしてチャンは、物語の中で、さらに喪失を覚えることになる。
『スワロウテイル』でも、グリコ、アゲハは、『何者にも成り得ていない』状態から物語は始まる。
何者かに成り得ようとして、日本に渡って来た円盗(イェン・タウン)のグリコは、歌という武器で『何者かに成り得た』時期が、少しだけあった。
しかし、その『何者かに成り得た』幸せな時間は、周りの力によって取り上げられる。
グリコが、火飞鴻(フェイホン)が、アゲハが一緒に手にしたはずの『何者かに成り得た』時間と場所、それをアゲハが取り戻そうとして、取り戻せなかったのが『スワロウテイル』という物語なんだと思う。
憧れ、見上げるような岩井俊二監督だが、その作品は自分の現状を代弁してくれるかのように物語が進み、そこにシンパシーを感じ、心が揺さぶられずにはいられなくなるのだ。

『ラストレター』の予告動画で、山崎貴監督のコメントが出ているが、まさにそのひと言が端的に表している。

『ラストレター』や、『チィファの手紙』は、『何者にも成り得ていない』俺たち側の物語を観せてくれているんだ。

今の年齢に達して改めて振り返ると、あの頃クリエイターとしてキラキラ輝いて見えた岩井俊二監督は、決して順風満帆で映画界に携わってはいないはずだ。名のある監督に師事したわけでも、助監督としての経歴を積んでデビューしたわけでもなく、ミュージックビデオの撮影から映像の世界に飛び込み、ドラマに携わり、映画監督としての道を自ら切り開いていた途上だったのではないかと思う。
自分が憧れの目で見ていた岩井俊二監督は、最前線で戦っている真っ只中で、自分にその苛烈さを想像するような思慮深さは当時には無かった。
そして、あれから24年経った今でも、戦い続けてきた岩井監督が、新たに届けてくれた作品の中に、あの頃感じた『俺たちの岩井俊二』が変わりなく存在したことが、自分にいたく刺さったのだと、今は思う。

渡せなかった岩井俊二監督への質問は
「今のご時世で、『スワロウテイル』のような作品を企画で通すのは、かの大国への配慮等で難しいと思いますが、もし、『スワロウテイル』のような映画のアイデアがあって、撮影が難しい状況の場合、監督だったら
・企画が通りそうな時期を待つ
・『チィファの手紙』のように、撮影できそうな海外で撮る
・自主映画として、クラウドファンディングで資金を集める
どれを選択されますか?
という質問だった。

でも、今は、岩井俊二監督が撮り始めたら、その作品がどんな作品であろうと、上映される劇場がミニシアターであろうと、大きなシネコンだろうと、必ず観客に届く気がしている。それは、岩井俊二監督が、俺たちの視点を忘れずに、いつまでもこちら側にいるんだと確信しているから。そして、そういう作品を待ち望んでいるファンが、劇場に必ず駆けつけるからだと信じて疑わない。

もしも、できるなら、23歳の渋谷の劇場を出たばっかりの自分に、教えてあげたい。
「24年後、お前はまた岩井俊二監督に、打ちのめされて、涙腺を崩壊させられるぞ!」
って。

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