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へびとブーメラン

自分への感情の裏切り

今日は太郎さんと街に来ている。太郎さんが「久しぶりに街を見たい」と言ったのだ。
「おい徹、あの子可愛いなあ!」
「ちょっと太郎さん、顔出さないでくださいよ」
 バックパックのすき間から太郎さんが顔を出している。
「すき間から覗いているだけじゃ、よく見えへんのや」
「バックパックからヘビが首出してたら、人がびっくりするでしょう」
「おー、あのオネーちゃん、イケてるね〜」
「だから、顔出しちゃだめって言ってるでしょ!」
 思わず大声でさけんでしまった。近くにいた女の子たちがビックリして僕を見ている。
「あっ、なんでもないです。へへへ……」あ〜恥ずかしい!
 バックパックに顔を突っ込むと、太郎さんがとぐろを巻いて笑っていた。
「何がおかしいんですか!」僕は小声で言った。
「だって、大声出すから。俺の声は徹にしか聞こえへんのやぞ。変態と間違われるで」
「もう間違えられましたよ。もう顔出さないでくださいよ」
 バックパックから顔を出すと、さっきの女の子たちが気持ち悪そうにこっちを見ていた。僕は恥ずかしくて、走ってその場を離れた。
「おい、もう少し開けてや」
 太郎さんがすき間から鼻先を出している。周りに人がいないのを確認して、
「十分見えるでしょう。これ以上開けたら、また顔出すんだから」
「出さない、出さない。約束するって、徹く〜ん」
「そんな甘い声出してもダメ」
 太郎さんの希望で、難波から通称〝ひっかけ橋〟といわれる戎橋を通って心斎橋まで歩くことになった。戎橋で、バックパックを肩にかけ橋にもたれて行き交う人を見ていた。
「阪神が優勝した時は、ここから道頓堀川に飛び込んだんやけどなあ。今、思えばよくこんな汚い川に飛び込んだもんや」
「ここから飛び込んだんですか?太郎さんってもしかして熱狂的阪神ファン?」
「こう見えても、若い頃はトラキチだったんだぞ」
 トラキチが今じゃシマヘビ。
「今、飛び込んでも体汚れないんじゃない?服も着てないし」
「ヘビがこんなところ泳いどったら、いい見世物や」
「徹、『くいだおれ』に行こうぜ」
「あれ、太郎さん知らないんですか? 『くいだおれ』閉店したんですよ」
「えっ、閉店したの。じゃ、くいだおれ人形は?」
「なくなりましたよ。でも今どこかのビルの看板人形になっているって聞いてますけど」
「そうか、俺の知らないうちに……」
 そう言えば、人間の太郎さんが死んでから何年たっているのか知らなかった。
「太郎さん、人間やめてから何年たつんですか?」
「3年ってとこかな」
「じゃ3年間ずっと、ヘビやってたんですか?」
「いや、ヘビはこの春から。その前は分からへん」
 春からヘビ。じゃ、ヘビになってすぐに僕んちに来たのか。野生のヘビ歴、短いんだなあ、太郎さん。
 戎橋から心斎橋に向かって歩いた。
「歩き疲れましたよ。ちょっとマックで一服しますね」
「いいね、いいね。俺ビッグマック」
「またですか?」
 マックの中は若者でいっぱいだった。僕は太郎さんの希望のビッグマックとベーコンレタスバーガーセットを買って席についた。バックパックを隣の席に置き、ビッグマックの箱のふたを開けて中に入れた。
「中を汚さないでくださいよ」
「分かってるって」
 太郎さんはそう答えながら、もうビッグマックを飲みこんでいるようだった。心斎橋から地下鉄に乗った。空いていた席に座り、バックパックを膝の上に置いた。
「疲れましたよ」小声で太郎さんに話しかける。
「俺は疲れてへんよ」
「そりゃそうですよね。ずっとバックパックの中に居たんだから」
 本町からおばあさんが乗ってきた。両手に荷物を持っている。荷物はさほど重そうではない。僕はとても疲れていたので、寝たふりをしていた。
「おい、徹! 寝たふりしているんちゃうか?あのおばあさんに席譲ったれや」
 僕は黙っていた。すると向かいの席の人が席を譲った。なんか気まずい気分だった。
「どうして寝たふりするんや。なんか気まずいからやろう」僕は黙って聞いていた。
「本当は席を譲らないとあかん、って思ってたから、寝たふりをしたんやろう。譲らなくてもええと思ってたら、寝たふりなんかせーへんもんな。だって何も気まずくなかったら、堂々としていたらええわけやし」
 太郎さんの言うとおりだ。
「どうして気まずいのか考えてみい。それは前に言った『恐れ』からや。周りの人から〝あいつ、なんで譲れへんのやろう?〟って思われへんか、って恐れているんや」
 確かに、僕は周りの目を気にして寝たふりをした。
「別の言い方をすると、自分の感情への裏切りやな」
 自分の感情への裏切り?
「自分の心はこうすべきだと思ってるのに、今の徹の場合、席を譲るべきだって思ってるのに、それに反した行動をとることを、自分の感情への裏切りって言うんや。自分の感情への裏切りをすると、それを正当化しようとするんや。あのおばあさんは元気だから席を譲る必要はない、なんて心の中で言い訳してなかったか?」
 僕は小さくうなずいた。
「会社の床にゴミが落ちているとしよう。拾ってゴミ箱へ入れようと思ったが、自分が出したゴミではないので〝いいか〟って思うことないか?それも一緒や。だけど、思うだけましやけど。なんにも感じないのが一番問題やな」
「あ〜、腹減った」
 太郎さんが冷蔵庫を開けて中を覗いている。今日全く歩いていないのにどうして腹が減るのだろう?
「寒〜」冷蔵庫の冷気で震えている。
「あっ卵!卵くれ、卵」
「自分で取ったらいいじゃないですか?」
「寒くて取れないから頼んでいるんやないか!気が利かねえなあ」
「しょうがないですね〜」
 卵を取って、太郎さんの前に差し出すと、パクリと飲み込んだ。太郎さんの体に卵の形がハッキリ出ている。
「う〜ん。美味しかった」
「美味しかったって、まだ溶けてないでしょう」
「気持ちの問題だよ。気持ちの」
 太郎さんの目が潤んでいるように見えた。そんなにおいしいのかなあ?僕は思わず太郎さんの体の卵を叩いた。ぐちゃっと卵は割れたようだった。
「何すんねん。せっかくの卵が割れてもたやんけ!」
「割らないと味わえないでしょう」
「ゆっくり溶けるのを味わうんや!殻が溶けて、その中の薄い膜が溶けて、それから中身が出てきて。それが美味しいんや。もう、全く分かってへんなあ。あ〜卵、卵、卵」
 太郎さんは仰向けになると白い腹を見せて体をくねくねさせ、だだをこねている。
「分かりましたよ、分かりましたよ。もうひとつ、卵取りゃいいんでしょう」
「ひとつじゃない。ふたつ」
「えっ、ふたつもですか?」
「ケチケチすな。人の楽しみを奪った罰や」
 しかたなく卵をふたつ差し出すと、ひとつずつパクリと飲みこんだ。太郎さんの体にふたつ、こぶができている。
「満足、満足」
 太郎さんはテレビの前に移動して、テレビを見だした。長澤まさみが出ているコマーシャルが流れていた。
「まさみちゃ〜ん」
 そう言って上半身(?)を起こした瞬間、太郎さんの体の中のふたつの卵がぶつかって割れた。
「ああ、卵が……」
 そう言って僕の方を見た。
「いい年して〝まさみちゃ〜ん〟なんて言っているからですよ。僕は知りませんからね」
「……」
 太郎さんはバタンと上半身を床にたおした。さらに卵は割れたようだ。翌日、僕は会社で床に落ちていたゴミを拾ってゴミ箱に捨てた。なぜか気分が良かった。

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