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へびとブーメラン

感情のコントロール

疲れた。暑い夏の営業活動はつらい。アパートに帰ると太郎さんが新聞を読んでいた。
「ただいま。太郎さん、暑くないんですか?」
「俺は、変温動物だから暑いのは平気なんや」
「僕、シャワーを浴びてきますので」
 浴室から出てすぐに冷蔵庫を開けた。中から缶ビールを取り出す。ビールを飲もうとすると、
「おっビール、いいねえ。俺にもくれない?」
「いいですよ。コップに入れます?」
「いや、そのままでええわ」
 缶ビールを開けて太郎さんに渡した。太郎さんは缶ごと飲みこむのではないかという飲み方をしている。飲んでいるというよりは、流しこんでいるという感じだ。
「いや〜、うま〜い」
 太郎さんは水を入れた風船のようになっている。ん?太郎さんの様子がおかしい。
「どうしたんですか?」
「変温動物ってこと忘れとった!体が硬くなってきた!」
「えっ!」
 慌ててお湯でタオルを温め、太郎さんの体に巻いた。5分くらいたつと、やっと動き出した。
「いや〜、失敬、失敬」
 もう、世話の焼けるヘビだ。
「ところで、今日は嫌な事はなかったんか?」
「それが……」
 今日、会社の会議での出来事だ。「協和病院でうちの薬の売り上げが伸びないのは、うちの薬の心不全の予防効果が、他社の製品より高いということが浸透していないからです」と、係長が発言したのだ。
 協和病院というのは、僕の担当病院だ。担当してから約半年、その前は係長が担当していた。確かに僕の宣伝不足で製品の特徴が浸透していないのは認める。しかし、係長が担当していた時にも、うちの製品の特徴が浸透していなかったのだ。
 そのことを棚に上げて、よく平然と僕を批判できるよな。どんな神経しているんだ。このことを太郎さんに話すと、
「徹、ラッキーやんけ」
「どうしてですか?自分のことを棚に上げて僕を批判するんですよ」
「でも、その係長の宣伝不足のおかげで、徹は成績を伸ばすことができるんやで」
「そりゃ、そうかもしれませんが……」
「自分に都合のよいように考えれば気が楽や。〝係長ありがとうございます。係長の宣伝不足のおかげで成績を伸ばす余地があります〟ってね」
 確かにそのとおりだ。
「他人の行動や言動を変えるのは難しいからな。自分の受け止め方を変えることで、楽になることってたくさんあるんや」
「そうですね。でも太郎さんって凄いですね。どうしてそんなふうに考えられるんですか?」
「人生経験が長くなるといろいろとあってな。ということでビールもう一杯」
「えっ、ビール飲んだら動けなくなっちゃうんでしょう」
「冷えてないビールだったら大丈夫」
 太郎さんに冷やしていないビールを渡した。
「冷えてなくて美味しいですか?」
「いや〜、暑い日のビールは最高やな!」
 太郎さんはそう言ってビールを飲み干した。太郎さんの目が赤くなっている。何か悲しいことでも思い出しているのだろうか?
「太郎さん、どうしたんですか?」
「いや〜別に〜」
 呂律が回っていない。酔っ払っている。
「ちょっと、飲みすぎたかなあ〜。昔はビール2缶くらいなんでもなかったけど……」
「人間の体じゃないんだから、昔と同じ調子で飲んだら酔っ払いますよ!今はヘビなんですよ、ヘビ!」
  「ふ〜」
 自宅でメールを見ながら思わずため息をついた。
「なに、ため息ついてんや」
「毎日課長から送られてくるメールを読むたびにやる気がうせるんですよ」
「何が書いてあるんや」
「『お前らは、営業の基本ができていない、だからこんな、体たらくなんだ。こんなことも知らなければ営業失格だ』とか。こんなの読んでいたらモチベーション下がりますよ」
「当の本人は、やる気なくさせてることに気付いてないんやろう」
「気付いていて、こんなメール送ってたら悪魔ですよ」
「悪魔かあ。ところで悪の反対は」
「なに急に言い出すんですか?悪の反対は善でしょう」
「では、善は絶対的なもの?」
「絶対的なものじゃないんですか?」
「悪がなくなったら、善はどうなるんや?」
「善ばかりの良い世の中になる」
「アホ、善がどうなるかって聞いているんや。お前のは答えになってない」
「じゃどうなるんですか?善が悪になる?」
「何言ってんねん。善と悪の基準ってなんや?
 相対的なものやんけ。絶対的な善や悪はないんや。すなわち、悪がなくなると善もなくなるんや」
 太郎さんが答えた。
「それと、課長がどう関係するんですか?」
「その課長がいないと、自分が善人になれないと思えばどうや。メール読むたびに、課長のおかげで僕は善人でいられるってね」
   次の日、また家でメールのチェックをしていると、
 「なんだ、不機嫌そうやな。また嫌なメールでも来たんか?」太郎さんが話しかけてきた。
「そうなんですよ。係長から書類の提出日確認のメールなんですが、提出期限は明後日なんですよ」
「べつに嫌なメールじゃないやんけ」
「でも課長にCCを入れて、〝僕はちゃんとやってますよ〟ってアピールしているんですよ。提出が遅れていて早く提出しろっていうメールなら、課長に入っててもいいと思いますが」
「気にしないことやな、なんもお前に害ないんやろう」
「でも気分が悪い」
「おたくの係長、課長によく思われることが行動の基になっているからなあ。課長の評価を恐れているんやな。でも、それにいちいちお前が感情的になっててはダメやな。徹には関係ないことだから。自分の感情をコントロールせーへんと。多くの人は自分の感情に気付いてへんから、感情に振りまわされてるんや」
 自分の感情のコントロールねえ。
「嫌だ、嫌だ、と思っていると、ますます嫌になるし、態度にも出てしまうやろ。自分の感情をコントロールするのは難しいけど、努力せんとあかんな。あと、その人の長所を見るって方法もあるで」
「長所を見るんですか?」
「そう、長所を見るんや。その係長にもいいとこ、もしくは徹にはないものがあるやろ。そこを学ぼうと思って見るんや。そしたら、その人のイメージが変わってくるで」
 確かに係長は僕より知識が豊富で感心させられることが多い。これまでは知識があることを自慢しているように見えて、嫌な気分になっていた。でも自分が知らないことを学ぶんだという態度で聞くと、嫌な気分にもならないだろうし、知識アップにもなる。
 よし! 明日から実行しよう。
 太郎さんが、またパソコンでインターネットをやり始めた。口先でキーボードをたたいている。
「太郎さん! なんか汚いですよ!」
「しゃ〜ないやろ。ヘビなんやから」
「舌でキーボード舐めないでくださいよ!」
「これもしゃ〜ないの!」
「舌を出さないってできないのですか?」
「できへん」
 キーボードが太郎さんの唾液で濡れている。汚ね〜。

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