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物事を多面的に見る

営業から会社に戻ってくると、後輩の藤田が落ち込んでいる。
「どうしたんだ」
「課長からメールで、昨日の日報が出てないって怒られて」
「でも、日報は2日以内に書けばいいことになってるから、昨日のは明日まででいいんじゃない」
「うちの課長にそんなルール、通用しないこと、田中さんよく知ってるでしょう」
「じゃ、どうして昨日書かなかったの?」
「昨日の夜、うちのおばあちゃんが心筋梗塞で病院に運ばれて、僕も病院に駆けつけていたんですよ。で、昨日の夜は何もできなかったんです」
「それは大変だったな。その理由を書いて課長にメールしておけばどう?」
「そうですね。そうしときます」
「ところで、おばあさんは大丈夫なの?」
「はい、幸い軽症で、バルーン入れましたけど、大丈夫みたいです」
「それはよかったな」
 僕はポンと藤田の肩を叩いて、自分の日報を書き始めた。
 家に帰って、藤田の件を太郎さんに話すと、
「課長は物事を一方の方向からしか見てへんのやな」と言う。
「一方の方向からしか見ていないのですか」
「そう、一方の方向からしか見てへん。日報が、次の日に出てなければ、さぼっているという一方向の見かたしかできてへんのや。体調が悪かったのかもしれへんし、パソコンの調子が悪かったのかもしれへん、なんてことを想定しないんや。いつも次の日に日報出している人のが出ていなければ、何かあったのかもって、心配してもええところやけどなあ」
「そうですよね。今回の藤田の場合は、おばあさんが心筋梗塞で入院したんですからね」
「課長は性悪説に立っているんかなあ。物事を多面的に見る癖をつけないとあかんなあ。物事を多面的に見ると、人の行動の理由をいろいろと考えられるようになり、人にやさしくできるようになるんだよ。この事はビジネスの世界でも通じるんやけど、今日は説明は止めとくわ」
〝人にやさしくできる〟かあ。
「徹、ウエットティッシュないんやけど」
「あっ、そうですか。じゃ明日買ってきますね」
「今さっき言ったばかりだろう。物事を多面的に見ろ、って」
「?」
「なぜ俺がウエットティッシュないことを言うのか、考えてや」
 ウエットティッシュは、そもそも太郎さんの唾液でパソコンが汚れるので買ってきたのだが、太郎さんが、自分で掃除するのにも使いだしたのだ。
「そうか!掃除したいんですね」
「そうや!よう分かったな。じゃ、掃除してくれる」
「どこを掃除するんですか?」
「徹、そんなことも分からんのか? テレビの後ろに決まってるやろ」
 テレビの後ろは太郎さんが寝床にしている。テレビの熱で暖かいらしい。
「すみません。気付かなくて」
 そう言って僕がテレビの後ろを掃除している間、太郎さんはテレビを見ている。
「まさみちゃ〜ん」
 長澤まさみのコマーシャルが流れているようだ。なんか掃除しているのがバカらしくなってきた。そもそもなぜ僕が太郎さんの寝床を掃除しなければならないんだ。僕は掃除機を取りに行き、太郎さんの尻尾に吸引口を合わせてスイッチを入れた。
「何すんねん!」
 ブウォーンという轟音とともに、太郎さんが掃除機に吸いこまれた。スイッチを切って、
「あっ、すみません。テレビの後ろの埃を取ろうと思って」
 太郎さんが息を切らしながら、
「嘘つけ!テレビの前でスイッチ入れたくせに!」
 そう言うと太郎さんが飛びかかって来た。僕はビックリして尻もちをついた。太郎さんが僕の首にまとわりついた。
「何するんですか?」
 太郎さんが僕の首を絞め始めた。
「くっ、苦しい」
「どや、参ったか?」
 そう言うと太郎さんは、僕の首から離れた。
「もう、死ぬかと思いましたよ!」
「俺も死ぬかと思ったで。これであいこやな」
 くそ! 悔しい。僕は掃除機の吸引口をまた太郎さんに向けた。太郎さんも上半身を立てて構えている。僕は掃除機のスイッチを入れて太郎さんを吸いこもうとした。太郎さんはそれをよけながら僕に噛みつこうとしている。太郎さんはなかなか素早い。
 僕は太郎さんに掃除機の吸引口を槍のようにして応戦した。
「うるさい! 夜中に掃除なんかするな!」隣からの声だ。
 僕は掃除機のスイッチを切った。ふたりとも息を切らしていた。
「徹、キレると何するか分からへんなあ。カルシウム足らんのとちゃうか?」
「太郎さんもなかなかすばしっこいですね」
「バカにすな」
 そう言うと、太郎さんはテレビの後ろに入っていった。太郎さんは笑っていたような気がする。

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