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稼げる大学論に関しての私見

そもそも「稼げる」とは、なにか。
稼ぐとは商品交換後の交換価値が交換前よりも増えている状態だと考えられる
つまり、生産したものが交換のプロセスをへて、「価値」が増加した状態だといえる。
この場合、「付加価値」という言葉が当てはめられるが、価値には交換価値と使用価値の二種類の価値がある

ミクロ経済学では、効用という名前で商品の価値を真正面から扱わない。しかし、使用価値のないものから人は効用を得ることは考えにくいと思われるので、このミクロ経済学の仮定は、さしあたり「使用価値=交換価値」という恒等式が即座に成立していることになる。
生産されて付加価値が付けられた商品は、自動的に交換価値と使用価値が同じ分(付加価値)の分だけ付け加わった状態であると仮定できる。
この交換価値と使用価値が一致した世界では、資源の配分において市場メカニズムを使うことに大きな異論はでないだろう。常に使用されるための価値だけしか、取引に用いられないので、そもそも使われないものは生産されず、資源は人間の消費活動の範囲内でしか利用されないからである。
しかし、現実の生産ではこの仮定が非現実であることが明らかである。

そもそも、付け加わった商品の使用価値の増加分だけ、交換価値が増加するかは現実に商品が交換されて確定されるまでは不確定である。つまり、少なくとも「使用価値=交換価値」は同時決定でなく、二時点間の不確定な条件に縛られる。マルクスが「(商品の)命がけの飛躍」と呼んだように、商品は交換されて交換前よりも高い交換価値を手に入れるまで、何らの価値も実現できない。
この運命の結果、交換価値と使用価値にはミスマッチが生じる。交換価値の増加が、将来的な交換価値の減少の運命を回避する(売れない使用価値を抱えて破産するという)ならば、使用価値を無視して、交換価値を増加させるために生産がはじまる。
これが「稼ぐ」ことの本質である。

将来的な交換の約束への期待、が交換価値を決めるのだとすれば、そこには使用価値の前提はなくなる。「効用」の概念は、この将来的な価値の前取りを1時点において即座同時決定される仮定を含まないとなりたたないはずだが、従前のミクロ経済学で、このような仮定は無視されている。
稼ぐ、ということの本質が交換価値の増加であるとすると、それは将来的な使用価値の「無制限の前取り」を含むので、実は使用価値に基づかない、つまり「使い尽くせない」生産の可能性を含んでいる。この時点で、資源の持続的な利用や「効率的な財の配分」という仮定は前提から破壊される。

無限の蓄積を前提にして、交換を繰り返すことに対するストッパーがないのである。腹が満たされれば飯を食わないが、将来的な交換のための蓄積に限界はない。だからこそ、交換価値の蓄積は「腐らない対象」が必要になるのである。

すでにわかるように、「交換価値」の王は「通貨」である。通貨は、将来的に実現する交換価値の現時点の約束手形である。そして、一切の使用価値をもたない、「作り出された希少性」によって成り立つ商品である。それゆえ、通貨という交換価値と、実物商品の生産という使用価値のミスマッチが生じると、交換価値の象徴である通貨はその相対的な価値を変動させる。これがデフレとインフレであろう。

さて、この交換価値を増やすことは、部分的には安全保障にも関わってくる。交換によって必要な使用価値を手に入れれば飢えがへり、生活は安定するからである。それゆえ、交換価値を増やすことは、一国秩序の安定につながる。しかし、無限の交換価値への欲求をそのままにすることは、交換価値の不均衡を生み出す。一生使い尽くせない富が唸る倉庫と、明日の食事を獲得できるか不安な財布が同時に生まれる。
ここに財政やマクロ経済政策の余地が生まれる。
なぜなら、交換価値を保証するのは国家であるが、国家の存在を規定するのはそこで生きる人間だからである。そのため、交換価値の無限の蓄積への欲求を破壊する形で、配分と再分配が実施される。

実は、SDGsといった資源の持続的利用と人間主体の経済のあり方は、上にあった使用価値と交換価値の間の二時点間のミスマッチから生じる、交換価値の無限蓄積という社会経済システム上の「バグ」を調整しようとする試みと言えるのではないだろうか。
私は、使用価値だけを重視した経済政策はほとんど無理であり、交換価値に基づく分配の効率性についてもある程度認めている。しかし、両者がどちらか一方だけで成り立つ構造は、破滅を内包しているのではないかと仮説をたててみたい。

このようなときに、単純な「稼ぐ」という言葉が複数の意味をもつことがわかる。国民あるいは人類が飢えないために、交換価値と使用価値のミスマッチを下げつつ、より豊かな社会を作るために知の拠点である大学がこれに協力することは、大学の責務であろう。しかし、単に交換価値の無限蓄積に大学の知を無償で協力するようにせよ、という言葉は少なくとも政府から発せられるメッセージとして、あまりにも「私のこと」だけ考えたものといえるのではないだろうか。

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