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楽しいことがあると責めるクセがある

楽しいことがあると、
「あぁ、良いことがあったな」と思うよりも、
「あぁ、良い想いをしてしまったな」と思う。

停滞感、焦燥感、それを飛び越した憤り。

何かを見ることは、インプットなどといった高尚なものではなく、ただの消費であり、その感覚こそが自分の行動を責める原因になっている。

何も成し遂げられない
周りに怯えてしまう
そんな私が
楽しい想いをしていいはずがない

やっと自由に選べるようになったのに
なんにも選んでいない
そんな私が
楽しい想いをしていいはずがない

マズローの欲求五段階説というものがある。
あまりに有名なこの説は、
①生理的欲求
②安全・安心の欲求
③所属・愛の欲求
④承認欲求
⑤自己実現の欲求
の順で満たされてゆく、人間の根源的な欲求である。
基本的には、数字の小さなものが満たされない限り、大きなものを満たそうという気持ちにはなりにくいとされている。

私は、②安全・安心の欲求を手に入れるまでの道のりが非常に険しく、そこに向けて懸命にもがく日々が長かったばかりに、③から上を目指そうとすると、どこかで必ず頭打ちになって引き戻されてしまう。

言語化するのなら、
「②までを守れていればいいんだ。
③から上を目指すなんておこがましい。」

考えすぎずにやればいいこと。
過去なんかに引っ張られなければいいこと。

わかっていても、なかなかこれが強力に心を引っ張ってくる。

そのくせ、私はもう十分に①や②を守れるようになり、③から上を満たす段階に来ているので、やれることがなくてうろうろしてしまうのだ。

でもここ最近の日々で、自分がどれだけ他人の思考の中で生きていたのかわかった。やりたいことをやっているはずなのに辛く空っぽだったのは、本当はそれが自分のやりたいことではなかったから。何もできないくせに同じ場所をぐるぐる回ってしまっていたから。

さて9月はどうするのかというと、引き続き消費の月にしてしまおうと思っている。楽しいことを楽しく感じられるよう、思いきり心を使い果たしてみるつもりだ。

あとはコツコツするようにする。劣等感をとんでもないパワーに変えていたわたしは残念ながら何処かに行ってしまったけれど、いつまでもそこに引っ張られては、停滞のままだ。

脳はどうやら嫌なことを思い出すと、それをもう一度経験するのと同じダメージを食らうらしく、それは、非常に良くないことだと思った。

劣等感を原動力にしたいときはすればいい。でも、他の動き方も身につけていかないといけない。それはいつでも自分を信じて進む力になるはずだから。このことをちゃんと受け止めしっかり刻む、新しい私を手に入れるのだ。どんなに小さなことでも、自分の感じたことをコツコツ大切にする。

できれば光の中にいたいけれど、周りを照らせる光は希望的すぎて似合わないので、暗闇のネオンくらいになりたい。暗闇の中で暗闇の存在を知らせるネオンになりたい。

あした晴れて欲しい。
そうして太陽をいっぱい浴びてみたい。
そう願える自分を
いっぱい褒めるところから、始めるよ。

生きる。 解釈が交わる世界で、手を取り合いましょう。