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開業初年度その1:戦略、集客、売上

 2015年4月、私は東京は南池袋にて念願の独立開業を果たした。実は独立して自分の塾を開くのはかなり早い時期からの「夢」だったが、長い間早稲田アカデミーの大学受験部に携わってきたので、大学受験の、それも集団授業を行う塾での開業がかなり難しいことだということは理解していた。それでも家のパソコンの中にあるフォルダを探ってみると、一度2004年にも独立しようとした形跡がある(笑)。この2004年というのは早稲田アカデミーが本格的に高校部(=大学受験部)に力を入れ始めてから3年後、1年に1校のペースで新校舎を開校している時期だった。

 2001年、早稲アカはそれまで「早稲田アカデミー高円寺校」に併設されていた高校生部門を独立させて、現役高校生専門校舎を「早稲田アカデミーサクセス18」(ワセダアカデミーサクセスエイティーン)という名称で立ち上げたのである。続く2002年には本社のあった池袋に「サクセス18池袋校」、翌2003年には「サクセス18国分寺校」、そして2004年には「サクセス18渋谷校」を連続して立ち上げた。

 そんな中で私は本社の「高校課、課長」として新校立ち上げの準備に携わり、毎年新校舎の高3生を担当していった。その頃の大学受験部門の組織図はちょっといびつで本社内では社長(創業者、故須野田誠氏)→教務部(教務部長=現代表取締役社長、古田信也氏)→高校課(課長=私)という指示系統があり、その一方現場(早稲アカではよく『校舎』と呼んでいた)では本部ブロック(ブロック長、現常務取締役、伊藤誠氏)→校舎(校長)という指示系統があった。つまり大学受験部門は本社の責任者=私、現場の責任者=ブロック長と2系統あり、その上で職位としてはブロック長(=部長待遇)>課長、だったのでややこしかった(というかやりにくかった)。

 という訳で、池袋校、渋谷校というターミナル駅の拠点校(になりうる校舎)の開校もひと段落ついたし、私も本部長→課長(=私)という流れとブロック長→課長(=私)という二つの指示系統のわずらわしさもあり、「そろそろ辞め時かな」等と考えて当時の早稲アカのNo.2であり2代目社長の瀧本本部長に「実は早稲アカを辞めさせて頂きたいと考えています」と相談した。すると本部長は「うちが二部、そして一部に上場するまで一緒にやらないか?待遇面もできることは調整するから」と、ありがたいことに、引き留めて下さり、結局その時はあっさり残留することに決めたのである。

 今思えばあの時に独立を決行しなかったのは一つには開業してもうまくいく自信というか確信が持てなかったからかもしれない。というのも当時考えていたのは・・・
・英語単科塾
・大学受験専門塾
・授業は少人数の集団授業
という塾だが、これではあまりにも特徴が無さすぎるし、私個人にもなにも売りが無かった。なにせ早稲アカの高校部自体認知度が低かったので、そこで高校部の責任者をしていました、とか英語の科目責任者をしていました、というのは何のアピールポイントでもなかったのである。その意味では「辞め時」ではなかったのだろう。辞めなくて正解だった(笑)

 加えて、当時はまだ集客はほぼすべて新聞折り込みチラシ頼みで、現在のようなネット社会ではなかったので、広告宣伝にはめちゃくちゃ資金が必要だった。となると残された手法はコツコツと信頼を積み重ね、口コミで生徒を増やしていくという正攻法しかないのだが、それをしている時間的余裕は妻子持ちの自分にはなかった。ではどうしてそれから10年後、2014年に私は独立を決めたのか?理由は簡単で、「確実に勝てる戦略」を見つけたからである。

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