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感謝と報恩

まだ梅雨入り前だが、かなり暑くなってきた。
こんな日は、冷たいものが欲しくなる。

コンビニに寄ると、いくつもの種類の炭酸水が棚に並んでいて、何を選べばいいか迷うほどだ。

レジを済ませ店の外に出ると、すぐに冷えた炭酸水で喉を潤す。
そこでふと思った。

私はモノやサービスを、お金と「交換」しながら生きている。
この「交換」によって世の中のすべてが成り立っているかのように感じる。
でも、果たして本当にそうだろうか?

例えば、家庭ではどうだろうか。
特殊な事情がある場合は別にして、ごく一般的な家庭では、お風呂や冷蔵庫、洗濯機、キッチンなどは、家族みんなで共有していて、そこに金銭のやり取りは発生しない。

男女が結婚して子供が生まれれば、睡眠不足になりながら3時間おきに泣く赤ちゃんの面倒を必死でみる。
衣食住を与え、教育を与え、自分の時間を削ってでも、子供が生きていくために必要なあらゆるものを無償で与えている。

仮にもし、これまで親が子供に与えてきたものを全てお金に換算して、その膨大な金額を親に支払うと言ったらどうなるだろうか。

「お金が欲しくてお前を育てたんじゃないよ」と笑って言われるのがオチなのではないだろうか。

私たちは、自分たちが受けている恩恵に対して、お金という手段ですべての対価を支払うことは不可能だ。

例えば、誰かに電話したいとき、通信会社に料金を払えば通話ができる。
しかし、そもそも「電話」というものを最初に発明したトーマス・エジソンには1円も支払っていない。
支払おうにも、もうこの世にいないのだ。

同じように、チーズは世界中で作られ、消費されているが、誰が発明、発見したのかさえ分からない。
その人が発明、発見してくれなければ、世界中の人たちは今もチーズを食べられなかったかもしれない。

自動車に欠かせない車輪だって、「車輪」という機構を最初に発見、発明した人がいたはずだが、あまりにも多くのものに使われて過ぎていて、もはや車輪が存在しなかった時代を想像することの方が難しい。

これらの発明・発見者を特定もできないし、そもそもこの世にいないのだから、対価を支払うことはできない。

つまり、対価を支払うことで「交換」が成立するわけだが、今現在、私たちが頂いている恩恵に対して、与えているものがまったく釣り合っていないのだ。
「交換」という考え方では、親や先人たちから与えられた恩恵に対して、私たちはそれを返すあてがないことになってしまう。

だから「交換」ではなく、「循環」の方が、より状況を正確に表現しているように思う。

今与えられていることに感謝し、自分たちもまた、次の世代の人たちの幸せのために尽くしていくことで、その恩に報いていく。

そうやって感謝と報恩が、時代を超えて循環していくのだ。


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