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アートの可能性~異世界からのエイリアンによる産物~

元々、芸術に興味なんて無かった。

小学校の図画工作なんて、評価は最低のC(小学校の時はABCだった気がする...)。
中学や高校でも、評定は3。
美術館に行っても、面白さが理解出来なかった。家でゲームやったりしてた方が、絶対楽しいと思っていた。

でも、全く芸術分野との関わりが無かった訳でもない。

小学校3年生から高校2年生までは「合唱」をやっており、歌うことは好きだった。歌詞に自分が入り込む瞬間が堪らなかった。

中学1年生からは役者として活動をスタートして、与えられた役を演じきった瞬間は楽しいし、特にカメラマンさんに良い絵を撮って貰えた時なんて、達成感があった。

それでも、絵や彫刻の楽しさは理解出来ない。

図画工作が嫌いなので、出来た作品を見ることしか出来ないが、
僕が見るのは過程を省いた結果(作品)だけ。

この止まった絵を見て、何が楽しいのか理解が及ばなかった。

しかし、今回の芸術祭を通して、それが大きく変わった。


今回の芸術祭「すみだ向島EXPO 2021」では、現代アートが多く見られた。

一応、現代アートの定義を載せておこう。

現代アート(現代芸術)を大まかに定義すると、現代社会の情勢や問題を反映し、美術史や社会への批評性を感じさせる作品のことです。
(引用:現代アートとは何か? | CASIE MAG - アートを学ぶ、楽しむ、好きになる。)

普段の生活の中で感じるモヤモヤであったり、社会における不条理を「アート」として具現化をするということだ。

本イベントで芸術監督を務めるヒロセガイさんが、このような事を仰っていた。

「私たち(=アーティスト)はエイリアンである」

これは、まさにその通りだと思った。

人間が現代社会で抱える問題を、どこか分からぬ場所?どこか分からぬ時代?から来たアーティストという名のエイリアンが、人間では捉えきれない問題を、アートの力で変革を起こしていく。

本イベントでも、地域外からアーティストさんが1ヶ月間の制作期間を経て、10月中は毎日展示をしている。

しかし、アーティストは孤立しておらず、地域の方とも親しく接したり、隣人プロジェクトの一貫で協働をしたり、など何かしらの形で街に浸透している。

テーマプロジェクトを担当しているアーティストの1人である田原唯之さんが、このような事を仰っていました。

「非日常では無い、日常の延長がアートである」

またまた、納得させられた。

あくまで非日常的な妄想を膨らますのではなく、常に「現代を問い直す」という事を念頭に置いている。
さらに、アーティストはエイリアンではあるが、本当にエイリアンなのであれば、それは非日常になってしまう。
だからこそ、地域に浸透するという事に非常に価値があるのだと感じた。

しかし、アートが響かないこともある。まぁ、仕方ない事でもあるのだが。

現代アートの展示物を見て、「よく分からない」と言いながら帰られるお客さんがいらっしゃいました。しかし、それで良いのです。

「アーティストが日常に対して感じたことを抽象化したものがアートであり、どこを抽出するかはその人の感性である。」

これも田原唯之さんや他のアーティストさんなどとの会話で気付かされた事です。

抽象化というのは、「共通項」という言葉と意味が近いが、要するに「抽出する」という事である。

テレビや新聞の報道も「抽象化」されたものである。

沢山の出来事がある中でも、オーディエンスが目を引きそうな一部を切り取って(=抽出して)、それを全国もしくは世界中に報道する。

しかし、逆を言えば、我々が見るのは抽象化された一部でしかない。その背景でどんな事があり、周辺部で何が起きているかなど知る由もない。

現代アートでもこれと同じことが起きている。

世界に無数に存在する「不条理」の中でも、またさらに一部をアーティストなりに抽象化して、それをアーティストの軸に沿ってアートとしてアウトプットをする。

前述した通り、我々が見るのは結果(作品)である。しかし、その結果に至るまでに様々な思考の流れがあった中で、アートという名の産物が完成される。

そこの背景まで理解した上で、やっと深みの出るのが現代アートの最大の特徴であると考えている。(基本的にはアート全般にも言える気がするが)

今回のイベントでは、そのようなアートの本来の楽しみ方というのを知ることが出来て、芸術分野への関心が以前よりも増した。

作品は作家の主張を見える化したもので、その主張の背景を考えたり、自分の主張と照らし合わせるという事は楽しいが、
作品によっては見ているだけでなんとなく落ち着くものもある。

その時々で、楽しみ方も変わるし、それでいい。

僕はアートが好きになった。

これも本イベントに参加していなければ、アートは苦手なままだっただろう。
これだけの短期間で価値観が大きく変わったことにも驚いているが、必然だったようにも感じている。

現実世界では、ルールの中で動かなければならない。ルールのない場所なんて、どこにも無い。

しかし、アーティストに与えられたルールとはアーティスト自身の「志」である。

どのアーティストさんも強い想いを持っていた。そして、きちんとそれを形にしていた。

本当に生きている世界が違うようにも感じた。

しかし、その世界観を求めている自分が居たことも確かであった。

理想主義者であり、現実社会での生きにくさを常に感じていた。イメージしたものは、必ずと言って良いほど形にならない。

具現化出来ない自分にモヤモヤをしていたが、その曇りが晴れた感じがした。

アートは可能性を秘めている

いつもの自分なら「アート」でここまで大袈裟な事を言わないが、今だからこそ言える。アートは可能性を秘めている。

まちづくりにも変革を起こせる1つの手段としてアートはありかもしれない。

「100年後も住み続けられるまちづくり」

こんな大きな志を掲げちゃってるけど、アートが魔法のように何でも解決する訳では無いけど、何かとの融合でアートの特性が最大限に活かされる気がする。

その特性が最大限活かされた時に、大きな革命が起きるんじゃないか。

農業、産業、情報に次いで第4の革命としてエネルギーが候補として挙げられているが、芸術分野も大小問わず変革を起こすのではないか。

その変革の可能性に気付くことが出来ました。

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