那智勝浦町昔懐かし話 第74話

  
   第74話『平 維盛 伝説ゆかりの地を訪ねるウォーク』
 
はい、少し間が開きましたが、皆様お元気でしょうか。まもなく4月新生活の始まる方もおられると思います。タケちゃんの方は、明日3/26の記念講演会の準備作業前のほんの束の間の時間にこれを書いております。今回は平 維盛に関係する話なので、那智勝浦町昔懐かしいどころか、平安時代のはるか昔のことに関係する話になります。あと僕は歴史学者でも維盛研究家でもなく、観光協会の一職員でありますので間違った表現等はあらかじめ御了承いただきますようお願いいたします。でわでわ第74話です。 
 
「昔から大野区には平家の落人の宝物が保存されているみたいやけど、前にテレビの取材で見せてほしいと頼んだやけど断られたことがあるんや」と僕は、同僚のIさんと話をしていた。来年度の観光協会の予算書作成のため誘客に結びつく新しいウォークイベントを考えていた。約5年前くらいの話である。「そうかん、勝浦には、補陀洛渡海の話もあるし、また維盛伝説もあるし平家のお宝見せてくれたらひとつの新しいウォークイベントできるかもしれんけどね」とIさん。「駄目もとで区長さんにきいてみよか。俺区長さんしったあるし。ちょっと電話してみるわ」と僕は区長さんに電話してぜひウォークイベントの中で大野区で保管している平家のお宝を見せてほしい旨聞いてみた。そしたら何と
「11月の第3日曜日に毎年大野保郷会館でお虫払いするさか、その時やったら見に来てもええで。写真とか撮ってもええで。ただし雨降ったら中止や」とのお答え。「ほんまですか、分かりました。その日に併せてウォークします。ぜひお願いします」と言うことで翌年度の11月に初めて「平 維盛 伝説ゆかりの地を訪ねるウォーク」を開催することになった。平 維盛は、(たいらのこれもり)と読み、清盛の孫で高野山で出家し熊野詣をしたあとに那智の浜から渡海船に乗り補陀洛浄土を目指し入水したと言われるが、一説に那智山の麓の色川地区に逃げ隠れたと言われている。この維盛の子孫たちが落人となりその後暮らしたと言われている。
ウォーク当日は、快晴で熊野那智ガイドの会のメンバーにガイドをお願いし全国からの参加者約30名といっしょに僕も参加した。世界遺産の補陀洛山寺横の公園(駐車場)に集合し、補陀洛山寺に参拝、補陀洛渡海船の復元船の見学と維盛の供養塔や渡海上人の墓の見学、そして那智の浜より観光船にて山成島や綱切り島、海から望む那智の滝の見学、そしてバスにて円満地公園へ移動し、そこから大野区の保郷会館までウォーク、途中色川神社等に立ち寄りガイドからの説明、そしていよいよ大野保郷会館に到着し平家の落人の宝物を拝見。ものすごい数の巻物、平家のマークであるアゲハチョウの模様の旗、後醍醐天皇に関するもの、また数々のお面(これは実際手に取り見ることができた)
等、大野区の皆さんの解説付きで約1時間じっくりと見学できた。このお宝見学に、参加者も当然初めてみるので「すご~い、来て良かった」の連発。しっかり説明を聞き、また写真に収めていた。その後また円満地公園まで歩いて戻りバスで補陀洛山寺の横の公園まで戻り解散となった。このウォークは、そのあと2年程続いたが、別の団体も行うようになり、またお虫払いも別の場所で大野区のイベントと一緒に行うようになったので、観光協会では行わなくなった。那智勝浦町にはこのように全国に誇れるものがまだまだあると思う。いつまでも残すべき、また語り続けるべき物だと思う。
 
第74話終わり
 
 
 

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