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PARADISE 3-4

 今日も平和だ、と健人は思った。教室のロッカーの上で過ごす昼休み、弁当のにおい、窓を濡らす霧雨、制服と笑顔と、ときどき、真顔。

 教卓の囲む男子たちの真ん中に和馬がいた。男子のひとりに頭を押さえつけられ、どんな表情を浮かべているのか、健人には見えない。おそらく笑顔ではないだろう。屈辱に耐えるように歯を食いしばっているわけでもない。感情をほとんど出さない、どうにかやり過ごそうとする表情。きっといつもと変わらないそんな表情を浮かべているはずだ。

 和馬が感情を表に出すのは滅多になかった。口喧嘩になっても、一言、二言、言い返すだけで、あとは黙り込んでいた。そのせいか、和馬と口喧嘩をして一度も負けなかったが、いつも一対二になっていた。優太郎が必ず顔を出すからだ。懐かしい、と健人は思った。優太郎はいつも和馬の肩を持ち、和馬を支えていた。優太郎が俺の味方になったときがあっただろうか。ざっと振り返っても、そんな場面は一度もなかった。優太郎が物を譲る相手は決まって和馬で、三人で受験勉強をしたときも、優太郎は和馬に時間をかけていた。獲物に巻きつく蛇のようにお互いを離さない、そんな関係が健人は気に食わなかった。どうして和馬と優太郎だけが楽しそうなのだろう。そこに俺がいたら駄目なのだろうか。日に日にそんな思いが強くなり、高校に入学してから、二人が離れていくような危機感に襲われるようになった。

 俺が散髪してやるよ。そう言って教卓を囲む男子のひとりが鋏を出した。健人はロッカーの上で横になった。腹を空かせた鰐のように、かち、かち、と銀色の刃が音を立てた。

 優太郎は俺が嫌いなのか。そんな疑念を直接ぶつけたことがあった。好きだよ、と優太郎は答えた。だったらなんで和馬ばっかりなんだよ。そう訊くと優太郎は顎に手を添え、少し黙ってから、そうしないといけないから、と答えた。どうして自分を偽るのだろう、と健人は思った。健人の目に映る優太郎は本気で和馬を支えたいと考えているようには見えなかった。抵抗するときに見せる獣のような目。自分のためだけに生きようとする獰猛さこそが優太郎の本性だと健人は考えていた。優太郎は優太郎を演じている。どうして自分を殺す必要があるのか、健人には理解できなかった。それがしたいと、そう思うのならやればいいだけだ。三人でいるときにどうして演じる必要があるのか、そんな詐欺師のような振る舞いが面白くなかった。

 鋏を持つ男子が和馬の髪をつかんだ。ここに優太郎はいない。和馬を助ける人はもうどこにもいない。ぴくりともしない和馬を見ながら、健人はそう思った。

 俺は優太郎が嫌いなのか。校舎の玄関の前でうつ伏せに倒れた優太郎を見ながら、健人は考えた。真っ赤な絨毯の上で眠るように動かない優太郎を見た瞬間、嫌なにおいを嗅いだように胸の中がむかむかした。教室に戻ってからも、そのむかつきは消えなかった。同級生たちの、自殺だろ、という声が耳に入った。和馬を見ると、唇を噛み、辛そうな顔をしていた。健人は怯えていた。なんで自殺なんかするんだよ。その言葉が浮かんだとき、優太郎が嫌いではない、と気づいた。優太郎がいなければあの三人にはなれない。優太郎は必要な友達だった。やばいんじゃねえの、と男子たちが珍しく怯えていた。健人の怯えは男子たちのようないじめの責任を負わされる恐怖ではなかった。優太郎を失うかもしれない。そこから生まれる恐怖だった。

 銀色の刃が和馬の髪を切った。男子の手には引き抜いた雑草のように髪が握られていた。モヒカンにしようぜ。いや、落ち武者だろ。誰かバリカンないのか。口々にそう言いながら教卓を囲む男子たちが笑っていた。和馬がゆっくりと顔を上げ、健人は思わず体を起こした。和馬は歯を食いしばり、威嚇する獣のような目で鋏を持つ男子を睨んでいた。こんな表情を見せるのは初めてだった。健人はロッカーから飛び降りた。一体どんな言葉を吐きかけてくるのか興味があった。どうせなら、この鬱陶しいむかつきを吹き飛ばすような言葉を聞かせてほしい。健人は期待に胸を膨らませながら和馬の前に立った。
「いい顔だな」
 健人は中腰になり、和馬と目を合わせた。健人を見るなり、和馬がにたりと笑った。凶器を隠し持つ犯罪者のような笑顔だった。
「まるで悪人だ」
 健人が挑発するように笑った。お前も似たようなもんだよ、と周りにいる男子が言った。
「いやいや、俺の方が愛嬌あるし」
 よく言うよ、と男子たちが笑った。高校に入ってからできた仲間だった。最初はひとりで和馬を甚振っていたものの、それがひとり増え、またひとり増え、気づけば健人の周りに決まった五人が集まるようになっていた。弁当を食べるのも、休み時間に話すのも、いつもこの五人。健人には他に友達がいなかった。健人にとって大切な仲間。そう呼べるほどの繋がりではなかった。一緒にいても楽しくなかった。楽しいと思い、笑顔を見せても、彼らの笑顔を見るとさらさらと砂を落とす砂時計のように楽しいと呼べる感情がなくなり、健人だけが冷めていた。彼らが甚振るとき、離れたところから眺めるのはそのせいだった。
「てか、俺は悪人じゃないし。どう見たって善良な市民だよ」
「だから優太郎の家に行ったんだ?」
 かすかに首をかしげながら和馬が訊いた。健人はすっと血の気が引くような思いがした。
「僕も行ったんだ、優太郎の家に」
 健人は肌に突き刺さるものを感じた。周りを見ると、男子たちが健人を見ていた。それぞれ違った表情を浮かべる顔には、どれも体を揺するような不審の目があった。

 健人は男子たちをどかせ、和馬の肩に腕をまわし、廊下まで連れ出した。男子たちには優太郎の家に行ったことを伝えていなかった。自分だけでもいじめの責任を軽くしようとしていた。男子たちにそう勘違いさせないためだった。もし優太郎の家に行ったことが知られても、それだけなら適当に嘘をついてどうにかごまかせたかもしれない。それが和馬の余計な言葉のせいでどうにもできなくなった。彼らをどう言い包めればいいのか、健人には考えつかなかった。

「気になるの?」
 和馬が男子たちを気にするように後ろを見た。ああ、と答えるのが情けなく思え、健人は教室から感じる視線に背を向けたまま沈黙した。
「大丈夫、鈴木のことなんて気にしてないよ。あいつらはただいじめたいだけなんだから、それが叶うなら、あとはどうだっていいんだよ」
 和馬が吹っ切れたように言った。まるで人が変わったようだ、と健人は思った。和馬への興味が恐怖に変わるほど、表情といい、言葉といい、溌剌として好戦的だった。
「優太郎、元気になるかな」
 窓の外を眺めながら和馬が言った。
「俺のせいだって言いたいのか」
 違うよ、と他人事のように和馬が答えた。
「こうなったのはお前と優太郎のせいなんだよ。お前と優太郎がもっと俺を見てたら、俺たちは昔のままでいられたはずなのに」
「同じだよ」
 和馬が素っ気なく呟いた。
「変わろうとしても変わったつもりで終わるんだから、どうしたって結果は同じだよ」
 健人の腕を静かに下ろしながら和馬が振り向いた。和馬の言葉を聞くうちに全身から力が抜けていくような感覚に襲われていた。和馬だけ違う場所を見ている。遠い目で教室を眺める和馬の横顔を見ながら、健人はそう思った。
「みんなそうだ。変わろうとしても変われないってわかってるから、この風景は一度も変わらなかった。最初は腹が立ったよ、なんで僕を助けてくれないんだって。でもね、いじめる立場もいじめられる立場も知ってから、この目に映る風景が今までとは違ってみえて、本当のことに気づけたんだ。みんな助けたいって思ってるけど、助けることで危険な目に遭うくらいならこのままでいいって、自分を守るためなら犠牲は仕方ないって、そう考えてたんだ。身勝手だよね。自分が良ければあとはどうでもいいんだから」
 和馬が窓を開けた。冬の風が廊下の生ぬるい空気を切り裂いた。
「でもここに生まれた以上、それが普通なんだ。生きてるって、心と体で実感できるのは自分だけなんだから、自分を一番に考えるのは当然なんだよ。間違ってるのはそういう考えじゃない。間違ってるのは、本当に悪いのは、今さらどうすることもできないような存在なんだから、みんな好き勝手にやればいいんだ。それがこの世界の正しい形なんだって、そう気づかせてくれたのは鈴木と優太郎だよ」
 和馬が健人を見て微笑んだ。思わず頬に手を伸ばしそうになる天使のような笑顔だった。
「ありがとう」
 そう言うと、和馬は健人に背を向けて走り出した。男子たちが、逃げたぞ、と声を上げながら遠くなる足音を追いかけた。誰も健人を見なかった。彼らのきらきらした目には和馬しか映っていないようだった。

 健人は廊下の壁に背中を預け、ふっと息をついた。風があくびをしそうなほど、教室の中は穏やかだった。

 幸せか。健人は心の中でそう呟いた。いつ、どこで、誰と何をしても、そこには必ずつまらない何かが蔓延っていた。どれだけ楽しい時間を過ごしたところで、その何かに気づいた瞬間、地獄に突き落されたように冷めてしまう健人がいた。純粋に心から楽しみたい。健人にとって、それが叶うのは和馬と優太郎の三人で過ごす時間だった。三人でいられれば、それがどこであろうと楽園になった。あの時間を永遠にできたなら、それが無理なら、どうにかして永遠に近づけられたなら、そう願っていた。その願いを打ち砕いたのが和馬であり優太郎だった。優太郎が和馬をかばった瞬間、いつも楽園が失われていた。三人でいる時間が長くなるにつれ、楽園にいられる時間が短くなった。和馬が優太郎を頼り、優太郎が和馬を支える時間が増えたせいだった。
 楽園を少しでも永遠に近づけるためには和馬と優太郎を切り離す必要がある。そう考え、和馬を標的にした。絶対に反抗しないとわかっているからこそ狙いやすかった。そうして和馬と過ごす時間が増え、優太郎が離れていった。どうして三人になれないのだろう。思いどおりにならない苛立ちが募るうちに優太郎が和馬を助けようとしてきた。まただ、と健人は思った。どうしてこの二人なのだろう。どうしてその中に俺がいないのだろう。怒りの矛先は和馬から優太郎に移った。優太郎さえ大人しくしていればいいのだ。そう考え、優太郎を狙うと、今度は和馬が離れた。楽園は遠くなるばかりだった。どうしたら三人でいられるのだろう。そう考えるうちに、自分の手で楽園を作るしかないと思うようになった。健人は和馬を誘い、ようやく三人で過ごせるようになった。それも和馬が優太郎を頼らず、優太郎が和馬を支えない、平和で、幸福な時間だった。今度こそ、この時間が続くものだと、そう思った。それなのに楽園を失ってしまった。

 健人は振り向き、窓から玄関を見下ろした。霧雨で見慣れた風景が白くぼやけ、校舎が雲の中に建っているようだった。優太郎はいないのだ。楽園はもう作れない。そもそも楽園は本当にあるのだろうか。健人は疑問に思った。楽園だと信じていたものは、楽園の形をした別物だったのではないか。だからこそ、平和も、幸福も、叶わなかったのではないか。いたぞ、と校舎のどこかで男子の声が響いた。本物の楽園はこの世にはない。健人はそう確信した。人が人である限り、楽園は作れない。作ったとしても些細なことで争い、必ず崩壊する。人が楽園と信じて立っている場所は血なまぐさい焼け野原だった。楽園なんて、どこにもなかった。

 風が吹きつけ、健人の髪が揺れた。町を濡らす雨のにおいは、心なしか、焦げ臭かった。

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