[日記] 解釈違いという言葉について

Twitterに投げてもいいけど長くなりそうなので文章のリハビリがてらブログにする。

オタク初心者なので解釈違いという言葉にはVtuberに触れてから(というより二次創作を始めてから)知った。いまだにこの言葉の温度感わからないのだけど、何となく解釈違い過激派みたいな人たちがいた過去からこの言葉に対して慎重な姿勢を取っている人が多そうな印象を受ける。自分としては意見の否定は人格の否定ではない、と同じノリで解釈違いは解釈の否定ではない、と感じるんだけど、解釈違いをカジュアルに運用するのはちょっとリスクがある気がする。

解釈には読解と創作の二つのレイヤーがあって、誤った解釈、というのは読解のレイヤーにしか存在しない。たとえば、男だと作中で明示されているキャラクターを女だ、と読み取るのは純粋に誤読である。単純に正誤が判定できなくても、説得力のある読解と無い読解は存在する。原作・原典に書かれていない内容を読み解く場合、基本的に正解は無い(例えば、ある人物の発言の意図など)。

一方で創作のレイヤーにおける解釈に誤りは存在しない。ここでいう創作のレイヤーとは原作・原典に無い出来事に対する言及を指す。たとえ誤った読解に基づく創作であっても、それは誤りとは言えない。根拠としていわゆる「パロディ」の存在がある。女体化パロは女性ではないキャラを女性として扱っている点では明確に「誤って」いるが、それは予め合意されており問題にならない。そのほかあらゆる点において、誤った・説得力のない読解をベースとした創作は、それが合意されている以上間違っているとは言えない。そして、二次創作を標榜する以上、読解の正しさを保証しないことは合意されている。

この前提に立てば、解釈違いという言葉は中立的なものになるはずである。そうではないとすれば、おそらくは正しい解釈というものが想定されている。つまり正しい読解に基づいたもののみが正しい創作である、というような。確かに〇〇はそんなこと言わない、と言いたくなるようなセリフ回しが見られることもある。けどそんなこと言ったらそもそもそんな状況にならねえよみたいなツッコミが無限に入るのではないか。

いや、書いていて思ったのだが、さすがに自分の読解が絶対正しいと思っている人はさすがに少数派だろう。けれど自分の読解と相容れない創作を許せない人は多分結構な数存在するのだ。でなければカップリング論争やら地雷カプやら※何でも許せる人向け やらは存在していない。まあ、ノイジーマイノリティである可能性もある。正直この感覚は分からない。自分が自身の読解に思い入れの少ないタイプだからだろうか。自身の読解への強い思い入れが創作の原動力になるというのはあるだろう。

自分はもともと議論好きなたちなので解釈論争とかは全然したいタイプである、解釈において相容れないレベルまで議論を詰めてみたい。解釈違いの人間が現れたらその人の解釈を聞いて参考にしたい。解釈一致なら議論する必要がないのだから、解釈違いだという表明は議論ができる前向きな言葉のようにさえ思う。けれどこう考えるのはきっと解釈違いなんだろうな。

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