「妄想」

 センター試験が終わり、大学入試2次試験に向けた補講が開かれてはいるものの、原則として自由登校となっている学校を後にして、僕は駅へと向かっていた。受験勉強の集中力が切れてきたため、自宅近くの図書館に場所を移し、仕切り直そうと思ったからだ。平日の昼過ぎという半端な時間のため、学校から駅までの大通りの人影はまばらである。今にも雪が降りだしそうな曇天で、ときおり吹き付けつける湿った風が冷たい。
 前方に、同じ学校の女子生徒がひとり信号待ちをしているのが目に入った。この時間に駅に向かっているということは、おそらく同じ3年生だろう。近くまで行くと、2年生のときに、僕と同じクラスだった子だと気付いた。
 彼女とはほとんど話をしたことはなく、携帯電話のメールアドレスも知らない。ちょっぴり派手目な女子のグループの中で、楽しそうな、大きな笑い声を響かせている姿を、僕はいつも遠巻きに見ていた。そんな彼女は、昨年「アイドル」のオーディションに合格したため、卒業に必要な最低限の日数だけ学校に出席し、それ以外は仕事とレッスンのため東京に通っている…らしい。学校側から正式なアナウンスはなかったものの、生徒の間では周知の事実となっている。身近にそのような人が居るのは珍しいことだと思うが、彼女に対して、非難めいたことを言ったり、変な噂が立てられたりしているのを、少なくとも僕は聞いたことがなかった。彼女の人柄や人望には、そのようなことを言わせない雰囲気があるのかもしれない。
「あーっと…、久しぶり。」
「…え?」
 彼女はつけていたイヤホンを耳から外し、少し驚いた顔で、僕を見上げる。ほとんど言葉を交わしたことのない男子生徒からいきなり声を掛けられたのだから、驚くのも当然だろう。普段は自分から女子にあまり話しかけない僕だが、このときは彼女を眼前にして、なぜか反射的に言葉を発していた。なんとなく、この時を逃したら、もう二度と会えないような気がして、話しかけないといけないと思った。
「ああ、ごめんいきなり話しかけて。2年生のとき同じクラスだった…。」
「ううん、いいんだけど、ええと…あっ!久しぶり!」
「よかった、覚えてくれてたんだね。」
「もちろん!2年生のときのクラスは楽しかったから!今のクラスの子たちは全然覚えてないんだけど…。ほとんど学校来てないしね。」
 信号が青に変わる。歩きながら、良く通る明るい声で話す彼女を横目にみる。透き通るような色白で、少し頬がぷっくりとしている顔は小さく、目がパッチリしていて、とてもかわいらしい。髪色は、染めていたのか元々明るめの色だったのが、今は美しい黒髪になっており、それが「アイドル」の仕事をしているということを、かえって際立たせているようにみえる。見た目は幼いのに、すごく大人びた雰囲気を感じる。
「今日はもう帰り?」
「ううん、今日も今から東京に行ってレッスン受けるんだ。」
「今から?大変だね…」
「でしょー。超忙しいの。最初に合宿があったんだけど、それもめちゃくちゃ大変で。ジョギングしたり筋トレしたり、ダンス覚えたり…。ほら、私体力ないじゃん?それに歌って踊るっていうことが本当に難しくて…まじでやばかった。」
 後先を考えずに話しかけてしまったが、思っていたより自然と会話が弾む感じがして楽しい。まあ、彼女はもともと分け隔てなく誰とでも話をしていたし、大人の世界で色々な人と接していて、相手に合わせることにも慣れているのだろう。
「へー、合宿なんてあるんだ。」
「そう!でも面白いんだよ。メンバーのリーダーの子がね、ジョギング中に迷子になって消えたことがあって…。」
「え?」
「他にもメンバー同士で喧嘩になってピリピリしてるときに、一人だけ寝てる子が居たりとか…。」
「そ、そうなんだ。面白い子たちなんだね。」
「うん!ちょっと変わってるけど、みんな本当にかわいくて、ダンスも歌も上手で、声もきれいで…。私も早くみんなに追いつかないとって思ってるんだ。」
 そう目を輝かせて語る彼女は、同い年の、年相応の少女にみえた。そして、これだけかわいらしくて、人を惹きつける才覚があるようにみえる彼女も、日々様々なことに葛藤しているのかもしれないと思った。自分に対する自信と、自信のなさが共存しているようにもみえた。
「アイドル、頑張ってね。俺、応援してるから。」
「アイドル…。うん、そうだね、ありがとう。君も受験頑張ってね。」
 彼女が「アイドル」という言葉に言い淀んだのは、厳密にいうと、アニメのアイドルのキャラクターの声優となり、自身も声優ユニットの一員として歌やダンスなどのパフォーマンスをする、ということだったためだが、このときの僕はよくわかっていなかった。
「ありがとう。センターはそこそこうまくいったんだけど、2次試験をパスできるかは正直微妙なところなんだよね。」
「そっかあ…。受験って絶対大変だよね…。私はこっちの道行くって決めて、勉強やめちゃったから…」
 そう言う彼女は、少し涙ぐんでいるようにみえたが、気のせいだろう。
「いやいや、そうやって自分で道を決めて、ひとりで東京に通って、目標に向かって前に進んでるって、本当にすごいことだと思うよ。」
「ありがとう。でも本当に私がやりたいからやってるだけだから。それにお父さんとか、家族も応援してくれてるしね。」
 僕も4月になれば、生まれ育ったこの街を離れて、大学生活を送ることとなる。そして、それなりに苦しいことや楽しいことを経験しつつ、自分の道を決めていくことになるのかなと思う。そうやって、少しずつ、周囲と歩調を合わせながら、大人になっていくのだろう。でも彼女は、自分の目指すべき姿を第一に考えて、まさにいまそれに向かって邁進している。正直うらやましく思う。僕には到底できないことだ。
「じゃあ、俺、こっちのホームだから…。」
「うん、それじゃ、またね!」
 いつの間にか駅に着いていて、自然と別れを告げた。本当は、もっと彼女のことを知りたい、もっと話したい、と思っていた。しかし、彼女と僕は住む世界がちがうのだ、彼女の時間を奪ってはならない、とその思いを打ち消した。一足早く大人になった、彼女の華奢な後姿が駅の雑踏に消えるまで、僕はいつまでも見送っていた。

 結局、彼女は卒業式も欠席し、それ以来僕と会うことはなかった。

 あの時から少しだけ「大人」になっている僕は、今日もスマートフォンでSNSを開き、「推し」の投稿に目を通す。どうやらデジタルフォトブックというものが発売するらしい。早速購入することにしよう。

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