ぼくの女王様 1話

 ぼくの女王様は、妹尾京子様とおっしゃいます。昨今の女王様方は可愛らしいお名前だけの名乗りですが、京子様は古式ゆかしくお苗字をお持ちです。どうしてなのかお伺いしたところ、本名だからやけど、と、そんなわけがないご説明をされました。それでもぼくは京子様の奴隷をやらせてもらっている立場なので、突っ込みを入れるわけにもいきません。そうですか、本名を知れるなんて嬉しいですと返すしかないのでした。
 京子様との出会いは、ありきたりなことですが、意を決して入ったSMクラブでした。仕事ですっかり疲れた夜は、SMクラブのHPを見て妄想を膨らませていたぼくでしたが、遂に足を運ぶことにしたのです。理由は単純なもので、仕事で小さなミスをして、上司から叱責されたからでした。
 どうせ怒られるなら綺麗な女性に怒られたいし、その後でたくさん褒めて欲しい。そんな欲望が抑えられず、おどおどしながら入ったお店で黒服の男性に勧められたのが、京子様だったのです。
 初めまして、京子です、と、最初に挨拶して下さった京子様は、とても知的で素敵な女性に思われました。今日はどうされたいの、と、訊かれて、たくさん叱られたいし、たくさん慰めて欲しいと曖昧なことをお伝えしました。すると京子様は少し考えるそぶりをして、NGある? と、訊いて下さいました。一応跡が残るようなことだけは遠慮させていただきましたが、その後の時間、それはもう、京子様はぼくを叱りつけてくれましたし、叱られすぎて涙ぐむぼくを精一杯抱きしめて下さいました。跡がつかないように叩かれた頬はひりひりしていましたが、抱きしめられた胸はとても暖かかったのを覚えています。
 全てが終わって煙草のケースに手を伸ばした京子様は、ぼくを見てちょっと悪戯っぽく笑うと、「煙草吸ってええ?」と、尋ねました。おや、と、思ったのは、その言い方です。それまで京子様は、綺麗な標準語を使っておられました。勿論吸って下さいとお伝えしながら、お伺いしても良いだろうかと考えていました。すると京子様は煙草を一本取り出して、ご自分で火を点けました。しまった、自分が点けなくてはいけなかったのにと思いお詫びすれば、京子様はからからと笑っておられました。
「ええよ。もう遊びの時間終わったんやし。あんたも吸う?」
「頂いて良いんですか?」
「ええよ」
 あっさり答えながら、京子様は煙草の箱をこちらに向けました。自分の持っている煙草を吸っても良い、という意味だと思っていたぼくは、まさか一本いただけるなんて思いもよらず、きょどきょどしてしまいました。
「あ、メンソールあかんかった? ワンミリやし、自分のやつ吸いたかったらそっち吸ってええよ」
「いえ、頂きます。すみません、ありがとうございます」
 一本引き抜いて、甘えることにしました。鞄の中からライターを探し出そうとしたぼくを見て、京子様が片手で無造作に火を点けて下さいました。
「すみません、火まで点けていただいて」
「なんもー」
 笑いながらそう返した京子様に、結局お尋ねすることにしました。お国はどちらなんですか、と尋ねると、「岐阜」と、京子様は隠しもしないで教えて下さいました。
「プレイの最中は、女王様らしく標準語で喋らんとね。でも終わったら気ぃ抜けるやん。いつまでも気取っとれんわ。ほやけど、これねえ」
 そこまで言って、京子様はぼくの顔を見上げるように目線を上げました。
「気に入った人にしかやらんよ」
 そう言われて、天にも昇る気持ちになる前に、ぼんやりと、ぼくのどこをそんなに気に入って下さったんだろうと不思議な思いでした。腕時計を見下ろした京子様が、「もう終わりやね」と、仰います。
「私、先に帰るわ。忘れ物せんように気ぃ付けやあよ」
 そう言ったと思えば、すぐにホテルの電話に近付いて、受話器を持ち上げました。「女性出ます」と、今度は標準語でフロントに告げて、煙草を灰皿でもみ消すと、キャリーバックの持ち手を伸ばしました。
「今日はありがとう。ほんならね、またご贔屓に」
「ありがとうございました。お気を付けて。また来ます」
 やっとのことでそう言い返して、扉が閉まった後で、じんわりと、気に入った人、という言葉が胸に広がるのを感じました。

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