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維新戦争物語/菊池寛

菊池寛 著 ほか『維新戦争物語』,新日本社,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1718007 (参照 2024-01-09)

※今後朗読予定のため、私が読みやすいように仮名や読点、漢字等変更しております。原本をお楽しみになりたい方は上記の国会図書館デジタルコレクションのリンク先を御覧ください。
※振り仮名については基本的に原文のままですが新仮名に変えている箇所があります。
※旧字と新字が入り混じってます。

1 桜田門外の変

『落花、紛々ふんぷん、雪、紛々。
 雪を踏み、花を蹴って、伏兵おこる。
 白昼、斬り取る大臣のこうべ
 噫嘻ああ、時事知るべきのみ。
 落花、紛々、雪、紛々。
 或はおそる、天下の多事、ここきざすを。』(村上拂山むらかみぶつざん

 萬延まんえん元年、三月三日、桜田門外の変は、維新史の上に、大きくは日本歴史の上に、一つのはっきりとした区切りをつけた、重大な事件であります。
 今までは、世の中が騒がしくなったの、将軍の威望いぼうがおとろえたのといっても、幕府というものが枢軸となって、時世が遷り変わってゆきました。幕府の組織が不合理なものとなり、幕府の伝統的な政策が、時代に適しないものとなったので、この枢軸に改革を加えろという世論せろんが、騒がしかったにすぎないのであります。
 ところが、桜田の変によって、いわばこの枢軸ががたりと外れてしまって、幕府は、枢軸としての機能を、失ってしまったのです。さればといって、時世は、朝廷を中心にして、さつちょうえつかいなどの一団が、幕府にかわって、時世の枢軸となったのであります。
 そうなると、幕府などというものは無用の長物です。当然、崩壊への第一歩を、確実に踏み出したのであります。維新史が、裏から見れば幕府没落史である以上、幕府没落の第一歩である桜田事変は、また維新史の第一ページであるといわなければなりません。

 桜田事変の原因は、尋ねれば遠いことであります。
 水戸の光圀が『大日本史だいにっぽんし』をあらわし、『忠臣楠子之墓ちゅうしんなんしのはか』をたてて大義名分を正し、尊王尽忠そんのうじんちゅうの思想を鼓吹こすいした時に、既にその種が蒔かれていたのでありました。志を王事おうじと国事にかける光圀は、大奥の勢力が幕政にまで及ぶのを苦々しく思い、一位様いちいさまと崇められて、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった綱吉将軍の生母の桂昌院けいしょういんを無遠慮に凌辱して圧迫を加えて以来、水戸家は大奥の勢力をおさえるということを家憲かけんの一つのようにしてきました。義公ぎこう光圀とならしょうされる忠義高邁ちゅうぎこうまい烈公れっこう齊昭なりあきも、もちろん、大奥の機嫌とりなどをする道理がありませんから、将軍家と水戸家とは一門でありながら、幕末に及んではほとんど敵味方といってもよいほどの、すれすれな間柄になっておりました。
 そのうちに、北からオロシヤが来る。南からイギリスが来る。フランスだ、プロシヤだ、アメリカだと、得体のしれない夷狄禽獣いてききんじゅうが日本の沿岸をうろつきはじめる時代になると、水戸の徳川齊昭なりあきが真っ先にたって攘夷を高唱します。幕府もはじめはそれに引きずられて、無二念撃攘令むにねんげきじょうれいなどを沿岸諸国にはっしましたが、嘉永かえい六年六月、艦隊を率いて浦賀に来たアメリカのペルリに空砲などを打ち鳴らして強談判こわだんぱんをされると、いっぺんにふるえあがって軟化してしまい、翌七年三月には手もなく、和親条約を結んでいる始末であります。
 幕府の条約締結は、間もなく勅允ちょくいんを得た上に『千萬御苦労せんばんごくろうの儀』という、御犒おんねぎらいの御沙汰ごさたまで頂戴したのでありますが、おさまらないのは水戸齊昭を首領とする攘夷論者でした。烈公麾下れっこうぎか藤田東湖ふじたとうこ戸田逢軒とだほうけん會澤安あいざわやすし等を第一線に、猛烈な論陣をはって幕府の弱腰を非難します。霊骨れいこつある諸国の少壮志士しょうそうしし靡然びぜんとしてこれに雷同したことは言うまでも在りません。
 しかし、一旦、アメリカとの和親条約で、竹の第一のふしを割ってしまった幕府は、爾来じらい破竹の勢いで各国と和親条約を結び、つづいて各国と正式の通商条約を結ぶまでは、なんと非難されようと中途でめるわけにはゆかなくなってしまいました。安政あんせい三年七月にアメリカ総領事のハリスが下田にてこでも動かぬ気勢で幕府に通商条約の締結を迫ります。
 ハリスの下田駐在をもって夷狄の国土侵略の第一歩であるとする攘夷論者は、慷慨淋漓こうがいりんりとして即時撃ちはらいたいといきりたつ。気早きはやの水戸藩士、信田仁十郎しんだじんじゅうろう等は、ハリス暗殺を企て、事あらわれて刑せられました。大諸侯の肥前ひぜん鍋島閑叟なべしまかんそうまでが、
『宜しく米使べいしを征伐して嘉永以来の恥辱をそそぐべし。』
 という意見を幕府に上申してきます。長州の高杉晋作なども痛烈な攘夷論を叫びます。
 天下の形勢かくの如き時代に、攘夷論の本家本元の水戸があっけらかんとしている道理がありません。徳川齊昭は方面を変えて、朝廷に開国通商を許し給わるように嘆願し、満廷まんてい朝臣ちょうしんに尊皇攘夷の思想を吹き込んでいたのであります。こうして、幕府と水戸家とは和解し難い対立の立場に分離してゆくのでありました。
 幕府はハリスに急き立てられて、安政四年の暮に、ともかくも通商条約の草案をつくりましたが、さすがに一存をもって調印するほどの勇気がありません。閣老堀田正睦ほったまさよしは、勅許ちょくきょという鶴の一声を得て囂囂ごうごうたる攘夷論を鎮めようと考え、安政五年二月に上洛、あらゆる手段をもちいて勅許をい受けるために運動します。そして、それは撒き散らした黄白こうはくの力も加わって、一時は成功疑いなしというところまで廟議びょうぎを導いてまいりました。
 しかるに、この形勢に悲憤した侍従岩倉具視いわくらともはる大原重徳おおはらしげとみ等は、三月九日の夜、徹宵猛てっしょうもう運動を続けて勅許反対の同志八十八人を獲得し、多数の力をもって形勢を一夜に逆転させてしまいました。その結果朝廷からは勅許とは打って変わって、
かり条約の文面では国威こくいたちがたく考えられる故、幕府においてもなおよく三家・諸大名と相談の上、改めて伺いをたてるが宜しかろう。』
 という意味の御沙汰書ごさたしょが堀田正睦に下されます。正睦は今更のように驚いて再び公卿くげの間に奔走してみましたが、もはや誰一人相手になってくれる者も在りません。泣くにも泣けない気持で呆然として江戸に帰ってきますと、江戸の形勢もまた留守の間に一変してしまっていました。即ち井伊直弼が大老となって、臺閣だいかくの上席に座っているというのであります、

 井伊直弼いいなおすけは、徳川家康の四天王の一、井伊直政なおまさえいの彦根左中将さちゅうじょう直中なおなかの十四男として生れ、幼名を鐵三郎てつさぶろうと言いました。十七歳で父をうしない、一つ二つ養子の口もありましたが、どういうわけかみな破談になり、俗界をあきらめて大通寺だいつうじの住職になろうとすると、これさえもうまく行きません。碌々ろくろくとして、長兄の直亮なおあきから三百ぴょうの捨扶持をもらって、その青春時代を三の丸壕端ほりばた陋居ろうきょうずめ、腐り切って自ら『埋木舎うもれぎのや』をごうしておりました。
 とし而立じりつ(十五)におよんでも立てもせず、まったく花咲く春もなくて終わるかと思われましたが、待てば海路かいろ日和ひよりたとえで、三十三歳の年に、藩主直亮の一粒種つぶだねが病死したについて幸か不幸か養子の口もなく、彦根で腐っていた直弼が一躍して三十五万石の世子せしに挙げられました。
 一つ運が向き出すと、物事はとんとん拍子に運ぶもので、直弼三十六歳の嘉永三年にふうを襲って掃部頭かもんのかみしょうします。幕閣ばくかくに入ってたまり間詰まづめとなると、埋木舎うもれぎのや時代の苦労と鍛錬とが物をいい、温室育ちの大名たちの間でたちまち穎脱えいだつし、柳営中りゅうえいちゅう嶄然ざんぜんたる存在となりました。
 当時、幕府の頭痛の種は外交問題もさることながら、もっと差し迫った重大事は将軍世継ぎの問題でありました。十三代将軍家定いえさだは病弱にして子がなく、物の用に足りないばかりでなく、あって返ってじゃまになる昼行灯でしたから、方今ほうぼう国事他端のおりから将軍に代わって政務をとりしきってゆける世子を立てることが、絶対に必要でありました。

 そこで、第一に候補者にあげられたのは一橋慶喜ひとつばしよしのぶであります。これは徳川齊昭なりあきの第七子で当年二十二歳、水戸家から出て一橋家を継いでおり、その人物識見についてはすでに定評があります。これを実父の齊昭、実兄の慶篤よしあつは論外として、越前の松平慶永まるだいらよしなが・その家臣橋本左内はしもとさない・薩摩の島津齊彬しまづなりあきら、その家臣西郷隆盛さいごうたかもり・尾張の徳川慶恕とくがわよしひろ以下、多数にして優勢な、いわゆる一橋派が躍起となって推薦いたします。
 けれども、肝腎の将軍家定はこれを喜びません。というのは、前にいったような事情で、大奥が絶対的な水戸嫌いなために、いわば大奥辨慶べんけいの家定は、一も二もなく大奥の意向に支配されていたのであります。
 このかんに乗じて策をめぐらしたのが平岡道弘ひらおかひちひろで、紀伊家きいけ目付家老めつけかろう水野忠央みずのただなかと示し合わせ、当年十三歳の紀伊家の徳川慶福よしとみを擁立すべく、着々として紀伊派ブロックを形勢いたします。一橋派が表なら紀伊派は裏で、その顔触れはいかにも堂々としませんが、それだけに侮りがたい根強さをもつようになりました。いよいよ、これを表面化する段になったが、さて、表面に立つ人物がおりません。老中ろうちゅう松平忠優まつだいらただまさぐらいでは、水戸の老公や越前の春嶽公しゅんがくこうあたりに一喝されると全然二の句がつげないのです。
 一橋派は巨塔連きょとうれんとまともに折衝をして顔負けしない人物は誰だということになっての見るところ、十指の指さすころで推したてられたのがこの井伊直弼でありました。すなわち、一橋派をたたきつぶして慶福よしとみを擁立しようという紀州派は直弼を一足飛びに大老たいろうに任じて、一種のクーデターを断行させようと策謀したのであります。
 直弼にとって将軍に代わって政務を独裁する大老の地位は魅力でなかった筈はありません。奇跡的に開けてゆく自分の運命に対して異常な自信をもつにいたった点も多分にあるでしょう。直弼は大老の地位をもって紀州派に買われ、当然起るだろうところの反対を押し切って慶福よしとみを将軍世子に擁立するために安政四年四月二十三日、正式に大老職についたのであります。

 井伊直弼が大老の職についたのは、条約調印の勅許を請い受けに行った堀田正睦まさよしが岩倉具視《いわくらともはる》等の妨害にあい、勅許はいただけない代わりに将軍世子の問題について、
『年長賢明の人を選ぶべし。』
 という、つまり慶福よしとみではなく慶喜よしのぶを選べという、内勅をたまわって帰ってきてから四日目のことでありました。
 幕府にとっては一刻も猶豫はなりません。堀田が閣老上席にあれば、内勅に従って慶喜を世子に立てねばならないのです。そこで有無なく直弼を大老に押しあげ、どさくさまぎれに内勅は聞かざるふりをして電光石火に事を運ばせてしまうというのであります。すなわち直弼は窮鼠となった幕府の猫を噛む選手として急に全面に押し出されてきたものであります。
 果せるかな、直弼は諸事をどしどし処理しはじめました。
 まず、安政五年六月十九日に幕府擅断せんだんをもって日米通商条約を正式に調印締結いたします。ついで二十五日に早くも立儲式りっちょしきをあげて、紀伊宰相慶福よしとみを将軍世子として西丸に迎え入れます。
 かくと知った烈公春嶽公しゅんがくこうなどは黒煙くろけむりをあげて憤激し、
すみやかに京都にのぼり、朝廷に謝罪しろ!』
 と、畳をたたいて詰め寄りましたが、かねて覚悟の直弼は恐れいりません。
『なにをっ、糞!』
 とばかりに、七月四日に将軍家定がこうずると、翌五日に『将軍家の御遺言』と稱して
一、尾張中納言(徳川慶勝とくがわよしかつ)、御隠居を仰せつけらる。
一、水戸中納言(徳川齊昭なりあき)、駒込お屋敷へ、屹度きっと御謹慎あるべき旨仰せいださる。
一、越前中将(松平慶永よしなが)、同様、謹慎の旨仰せいださる。
一、一橋慶喜けいき、水戸慶篤よしあつ登城とじょうめ、その老臣ろうしん差控さしひかえあるべき旨仰せいださる。
 という、霹靂の沙汰書を発し、今まで一橋派と目されていたものをば仮借かしゃくなく処罰して、ことごとく幕府政局から締め出してしまったのであります。三家筆頭、天下副将軍の水戸齊昭に謹慎の罰を課するなど、こんなことが一体可能であったのかと、目を瞠らせるに十分な弾圧です。
 ついで来るものは当然京都方面の手入ていれでなければなりません。対外強硬論をとなえて朝廷の力をかりて幕府に盾突き、また幕府に無理難題を吹っかけて苦しめようとする公卿くげ・諸侯・志士・浪士一切に対する秋霜烈日しゅうそうれつじつの処分であります。世に謂う『安政の大獄』は、こうして起されました。
 井伊直弼は其の目的をもって老中ろうちゅう間部詮勝まなべあきかつ、家臣長野主膳ながのしゅぜんを上京させ、所司代しょしだい酒井忠義さかいただよしや町奉行の岡部おかべ土佐守と協力して一網打尽に京洛の尊王攘夷派を逮捕させます。この安政の大獄で処罰されたものは、事情は一々ちがいますが、大体次の通りであります。

  • 鷹司太閤政通まさみち――辞官落飾じかんらくしょく

  • 鷹司右大臣輔凞すけひろ――辞官落飾

  • 近衛左大臣忠熈ただひろ――辞官落飾

  • 三條前内大臣實萬さねつむ――辞官落飾

  • 一條内大臣忠香ただか――遠慮引籠えんりょひきこもり

  • 二條大納言齊敬なりたか――遠慮引籠

  • 近衛大納言忠房ただふさ――遠慮引籠

  • 久我右大将建通たてみち――つつしみ引籠

  • 水戸前中納言齊昭なりあき――永蟄居えいちっきょ

  • 一橋刑部卿慶喜よしのぶ――隠居いんきょ慎み

  • 尾張中納言慶恕よしくみ――隠居慎み

  • 水戸中納言慶篤よしあつ――差控さしひかえ

  • 松平越前守慶永よしなが――隠居慎み

  • 松平土佐守豊信とよのぶ――隠居慎み

  • 伊達遠江守とおとうみのかみ宗城むねなり――隠居慎み

  • 安島あじま帯刀たてわき(水戸家家老かろう)――切腹

  • 茅根ちのね伊豫之助いよのすけ(水戸藩士)――死罪

  • 鵜飼うがい吉左衛門きちざえもん(水戸藩京都留守役)――死罪

  • 鮎澤あゆざわ伊太夫いだいふ(水戸藩士)――死罪

  • 鵜飼幸吉こうきち(吉左衛門倅)――獄門

  • 小林民部権大輔みんぶごんのだいすけ(鷹司家家来けらい)――遠島えんとう

  • 池内大學いけうちだいがく儒医じゅい)――中追放ちゅうついほう

  • 津崎村岡つざきむらおか(近衛家老女ろうじょ)――押込おしこめ

  • 橋本左内はしもとさない(松平越前守家来)――死罪

  • 吉田寅次郎よしだとらじろう(浪人)――死罪

  • 頼三樹三郎らいみきさぶろう(儒者)――死罪

  • 飯泉喜内いいずみきない(曽我権太夫ごんたいふ家来)――死罪

  • 日下部裕之進くさかべゆうのしん伊三次いそうじ倅)――遠島

  • 物空萬もつくうまん大覚寺だいかくじ門跡もんじゃく家来)――遠島

  • 吉見長左衛門よしみちょうざえもん(伊達遠江守家来)――重追放

  • 丹羽豊前守たんばぶぜんのかみ(三條家家来)――中追放

  • 國大學くにだいがく(鷹司家家来)――中追放

  • 森寺若狭守もりでらわかさのかみ(三條家家来)――中追放

  • 伊丹蔵人いたみくらんど春連院宮しゅんれんいんのみや家来)――中追放

  • 藤森恭助ふじもりきょうすけ古賀謹一郎こがきんいちろう家来)――中追放

  • 世古恪太郎せこかくたろう(伊勢松坂町人)――江戸拂えどはらい

 以上は比較的有名で重科を課せられた人々だけを挙げたもので、全部の処罰者はこの三倍以上にのぼります。また、処罰された幕府役人はこの中には入っておりません。
 頼三樹三郎・池内大學とともに『悪謀四天王』と睨まれて、真っ先に逮捕された梅田雲濱うめだうんぴんは獄中で病歿びょうぼつし、梁川星巌やながわせいがんは検挙の直前に幸か不幸か中毒で死んでおります。また、小林良典こばやしりょうてんや六物空萬などは遠島とはいっても、結局生死不明、行方不明になってしまっています。松陰吉田寅次郎などは当時郷里はぎ獄裡ごくりの人で、検挙するさえ不当なくらいなのに、直弼は自ら筆をとって罪名を『死罪』と書き、ついに斬ってしまいました。
 総じて安政の大獄は罪のための罰ではなく、幕府の都合と直弼の感情とによる罰のための罰でありましたから、それに対する反感もまた異常の激しさで燃え上がったに不思議はありません。

 水戸派に戦慄すべき大弾圧を加えたことによって、齊昭を目の敵にしている井伊にすれば少しは胸がすうっとしたかも知れませんが、これで安心というところまではゆきません。
 それは、幕府にとって一番始末の悪い倒幕の密勅を水戸藩が握っていてはなさぬことと、天狗といわれた水戸藩の硬派が齊昭を遠く取り囲んで、幕府に対して何等かの反発を示そうとしていることであります。この反対気勢に対しても、井伊はあくまで高圧的であり、挑戦的でありました。
 密勅については、井伊は京都の酒井忠義に命じて、朝廷から勅書返納の沙汰書を仰ぐよう、百方手をつくして尽力させ、その年の十二月十日、やっとそれを手に入れることに成功しました。
『昨年八月八日、水戸中納言へ下し置かれし勅諚ちょくじょう書付かきつけ並に添書てんしょ共、このたび返上これあり候ようおおいだされ候間、その段水戸中納言へたっせらるべく候。よってこの段申込候事。』
 というのであります。
 このことが早くも水戸藩士の耳に入りまして、硬派は幕府の強要による御沙汰ごさたしんの朝命でないと息巻き、ために一ぱんが騒然たるありさまでございました。
 大体、この密勅は彼らが安政の大獄という大きな犠牲を払って得た、最後の切り札であります。それによって現実に尊皇攘夷の大運動を巻き起こすことはできませんでしたが、少なくともこの一書を持っておれば大義名分は水戸藩にあるのです。之を簡単に井伊に巻き上げられたのでは、今までの水戸藩の苦心なり犠牲なりは水の泡となって立つ瀬がないのですから、激越派げきえつはは勿論のこと、穏便派の者さえ密勅を幕府に返納することについては強硬に反対したものであります。
 勅書はその当時幕府の返納強要に対抗するために水戸城中の祖廟そびょうに収めてあったのですが、慶篤の側用人そばようにん横山甚左衛門よこやまじんざえもんが都合があるからといってこれを江戸の藩邸に奉持ほうじしようといたしました。これを聞いた激越派の一団は極度に憤慨して決起し、水戸城外二里の長岡にたむろして、
『今もし、密勅を江戸に移してしまったならば、水戸累世るいせいの大義は失われるのである。よろしく国境に待ち受けてこれを奪還すべきである。』
 と叫び、大道だいどうの真中に『大日本至誠至忠楠公之標だいにっぽんしせいしちゅうなんこうのひょう』と大書だいしょした木柱もくちゅうをたてて、横山の一行を威嚇する騒ぎまでありました。
 こうした険悪な空気の中に大獄で有名な安政六年はくれ去って、桜田事変に記憶されるべき萬延まんえん元年を迎えたのであります。
 年が変わるとともに直弼の態度はいよいよ強硬で、安藤信睦のぶよしを小石川の水戸邸につかわして、勅書返納を催促し、もし従わなければ違勅いちょくであると威嚇し、違勅は同時に水戸家の滅亡を意味するぞとまで極言せしめたのであります。
 これが慶篤や穏和派を動かして、とにかく密勅を江戸に持ってこようということになり、それを渡すまいとして激越派の長岡屯集とんしゅうとなったのでありました。
 蟄居中の齊昭まで、騒ぎがあまりに大きくなったので、
『その衷情ちゅうじょうは察するが、一藩の運命には代えがたい。』
 といって、手書しゅしょを長岡勢に下して自重を促しましたが、勢いの激するところ今となっては老公の御沙汰といえども一向に徹底しないのであります。
 ついに意を決した藩当局は長岡に向けて鎮圧の諸隊を繰り出すとともに、彼等の黒幕と目されていた激越派の領袖りょうしゅう、高橋多一郎、関鉄之介等を評定所ひょうじょうしょに召喚しようとしました。
 しかし、このときすでに彼等は何事かを期するもののごとく、水戸を脱走してしまっていたのであります。

奸賊かんぞく井伊を屠らねばならぬ!』
 これは単に水戸藩だけの声ではなかった。薩摩の西郷吉之助きちのすけ・有馬新七しんしち等も早くから水戸の有志と連絡を取って決行の時期をうかがっていたのであります。
 はじめはむしろ薩藩さつはんの方が急進的で、水戸藩は尚早論しょうそうろんをとって自重していたのでしたが、勅諚返納にからまる井伊の高圧的態度は急に水戸藩の硬派をして決然、挙義斬奸きょぎざんかんの決心をかためさせたのであります。
 その謀主ぼうしゅは高橋多一郎・金子孫二郎かねこまごじろうの二人で、先ず有志五十人を糾合きゅうごうしてこれを二手に分け、一手は大老をたおし、一手は横浜を焼き払う。同時に薩藩有志を上京させて京都を守護し、東西相呼応して攘夷を決行しようというのでありました。
 決起の時期ははじめ二月二十八日と決めていたのであります。
 高橋多一郎、名は愛諸よしゆき柚門ゆうもんごうします。藤田東湖ふじたとうこに愛されて、
『柚門・才気俊敏、気力強捍きりょくきょうかん、常に人事を以て、天を制せむ。恐らくは畳上じょうじょうに死するをざらむ。』
 と評された。
 金子孫二郎は水戸藩の郡奉行こおりぶぎょう治蹟ちせきのあったことで有名な人物です。
 二月十八日、彼等はいずれも水戸をひそかに脱出して、それぞれの目的地に急ぎました。予定に従って高橋多一郎は上方かみがたに赴いて薩藩義兵さっぱんぎへいの上洛を待つこととし、金子孫二郎は江戸において井伊要撃の総指揮者として働くことになっていたのであります。
 それと同時に、長岡にあって気勢をあげていた連中も一先ず解散して、おのおのその進退を決めることになりました。
 水戸から江戸にいたる街道筋の警戒は想像以上に厳重を極め、そのために江戸出府えどしゅっぷの人数も整わず、二月二十八日決行の予定が延期のやむなきに至ったのであります。
 三月一日、総帥金子孫二郎はいよいよ事を決するため、同志を日本橋西河岸にしがし山崎楼やまざきろうに集めました。山崎楼は往年、西郷と水戸藩の有志との秘密の会見場として馴染みの家であります。
 金子孫二郎の従臣、佐藤鐵三郎の筆録によりますと、
『ここにおいて議はじめて決す。明後みょうご三日もって挙行の日と定む。三日は上巳じょうみ嘉節かせつにより大老必ず登城とうじょうせんと予定すればなり。場所は桜田門外と定む。』
 更に三月二日、決行の日を前にして一同は訣別のえんを品川の妓楼ぎろう土蔵相模つちくらさがみにひらきました。出府以来、はじめて顔を合わすものが多いので、
『よう。』
『やあ。』
 といった挨拶からはじまり、の更けるとともにようやく酒がまわってきて、三十畳の大広間は飲めや歌えやの大騒ぎでありました。

 明くれば萬延元年三月三日!
 ほのぼのと白みかけた空からは鵞毛がもうのような雪が霏々ひひとして降り出しました。
 海後嵯璣之助かいごさきのすけの語るところによりますと、
『それより朝食をおわりて、おのおの立ちいでんとする折しも、凍雲とううん天をとざし、飛雪ひせつ紛々として降りいだしたり。関鐵之介、あおいで喜色をおび、ああ、この吉兆をくだすてんが忠義をたすくるなりと独語どくごす。』
 かくて彼等は三々五々、集合予定地である愛宕山あたごやまに向かって急いだのでありました。
 愛宕山には薩藩から有村次左衛門ありむらじざえもんが来ていました。水戸側の事態が急迫したために無理に事を急いだのと、薩摩の藩論がかわり島津久光しまづひさみつから諸士の自重を求めた教書きょうしょが出たり、また在府の人数が至って少なかった関係上、薩州さっしゅう側からは一二人の参加を見たに過ぎませんでした。これで総勢十八名。
 総帥金子孫二郎は、事件の終始を見届けて直ちに上洛して第二段の運動に取り掛かるため、予め定められた通りさつ有村雄介ありむらゆうすけとともに品川の旗亭きていにのこって消息を待っております。
 十八人の同志は、愛宕山上の絵馬堂えまどうの中に雪を避けて部署の相談をまとめました。左翼右翼、それに行列の前をつく遊軍、斥候に予備隊。総指揮は関鐵之介、総代として蹶起趣意書を老中に持参するのが齋藤監物さいとうけんもつと決まります。
 それから一行は目立たぬように前後して愛宕山の通りから新橋へ出て、左へ曲がって桜田門に向かいました。
 雪はしだいに降りつのって、おまけに横合いからの風が加わり傘もさしがたい位でありました。やがて桜田門外に着きます。
 桜田門外には、よしずはり茶店ちゃみせがありました。同志の人々は二三人ずつみんな通りがかりのていで田舎侍の江戸見物となりすまし、思い思いに茶や燗酒で寒さをしのぎながらおほりの鴨を見たり、武鑑ぶかんを取出していくつも通る大名行列を見送っています。
 いずれも緊張しきった眼をして、井伊家の正門しょうもん(今の参謀本部)から行列の現れてくるのを息を殺して待っているのです。
 そのうちにも時刻は移り、千代田の城の太鼓櫓で五つ(午前八時)の太鼓を打つ音が吹雪にこもって鳴り響きました。
登城触とうじょうぶれだ。いよいよ来るぞっ!』
 一同、思わず武者震いをして瞳を凝らすと、果たして、井伊家の大門おおもんが、ぎ……と八文字に開きます。
 一列の赤合羽あかがっぱが、粛々と雪の中から盛り上がってくるように濠端に沿って近付いて来ました。
 一本道具いっぽんどうぐを先に立て、吹雪に吹きなぐられながら五六十人の傘と駕籠かごが規則正しく刻み足で『下に下に。』の唱道の声いかめしく、雪にわらじをはます音がぎすぎすと響いてきます。
 年少で気の早い佐野竹之助さのたけのすけは早くも羽織の紐をといて、ばらりと後ろにはねかけます。大関和七郎が横目でこれを見て、ぐいと袖を引き
『まだまだっ!……落ち着けっ!』
 と小声で叱りました。
 傘をさしている者もあり、菅笠すげがさをかぶっている者もいます。うずくまっている者もあり、堀の方を向いてさりげなく立っている者もいます。みな合図を待って、じっとこらえていますが、その眼はいずれも次第に火のように燃えてゆきます。
 行列の先頭が大隅守おおすみのかみ邸前ていぜん大下水おおげすい萬年樋まんねんとい)の辺りに差し掛かりました。駕籠は、ばらりと配置した同志の真中まっなかに囲まれる位置まで来ました。
 今だ! 時期は熟して、まさに絶好!

ささげます。』
 と叫びながら何か直訴でもするような格好をした一人の町人風の男が、辻番小屋つじばんごやの後ろから駕籠をめがけて走り寄りました。
 井伊家の供頭ともがしら日下部三郎右衛門くさかべさぶろうえもんと、共目付ともめつけ澤村軍六さわむらぐんろくとがきっと立ちふさがって、
『何者じゃ。差越さしこしねがいは相成らんぞ!』
 と刀へ手をやったが、羅紗覆らしゃおおいで柄をくるんであるので咄嗟には抜けません。大雪のために湿気が刀身に通るのを防ぐ為、柄袋をはめてあったので急場の役には立たないのです。慌てて鞘もろとも抜こうとしたが、このとき、早く町人の傘はびゅうとちゅうに飛び、ぱっと合羽をはねれば白鉢巻、たすき十文字の凛々しい森五六郎もりごろくろう、腰の一とう

『えいっ!』
 と日下部の真額まっこうへ斬りつける。返す刀で澤村を大袈裟おおけさがけに斬り下げました。
『すど………………ん!』
 この瞬間、いづこともなく一発のピストルが放たれました。それを放ったのは関鐵之介ともいうし、黒澤忠三郎だともいいますが誰にせよ『全員かかれ!』の号砲には違いありません。
 この銃声を合図に十八人の烈士は一斉に被物きもの、履物を脱ぎ、抜きつれて左から右から井伊家の行列目掛けて斬り込んでゆきました。
 激しいやいばの音が氷の割れるように耳を打つ!
 血しぶきが火花のように雪の上に散る!
 雪はいよいよ本降りとなって、ほとんど五六尺の先もぼんやりとしか見えません。敵味方入り混じって、ほとんど白烟模糊はくえんもこの中に切り結んだのであります。
せいっ!』
どうっ!』
 これが烈士の同士打ちを防ぐための合言葉であり、同時に烈しい気合の掛け声でもあります。
 不意の襲撃で井伊の駕籠側は乱れ、駕籠を守る人数は極めて少数でした。駕籠かきどもはいつの間にか姿をくらませ、駕籠は地に据えられたままで扉も開けられません。気配を知って直弼は駕籠の中から
『駕籠脇を離れるな離れるな!』
 としきりに叫んでおります。
 それと見て、先ず全身でぶっつかって行ったのは稲田重蔵いなだじゅうぞうです。ただ一人踏みとどまって直弼の駕籠を守る、彦根第一の武芸者と謳われた神免二刀流しんめんにとうりゅうの師範役、河西忠左衛門かわにしちゅうざえもんと切り結んで、深手を負うてよろよろしながらも血だらけの大刀だいとう双手そうしゅに掴み、岩をもとうれと駕籠の中を刺し貫きました。
『国賊!』
 と、二度目に突いた時、ぐさっとした手応えが電気のように柄もとに感ぜられました。
 そのあいだに河西は有村次左衛門ありむらじざえもん佐野竹之助さのたけのすけに囲まれて遂に斬死きりじにをしました。海後嵯璣之助かいごさがのすけは続いて駕籠に刃を入れる。
 河西をたおしたのちに、左から有村次左衛門、右から佐野竹之介の二人が疾風のように駕籠脇に駆けつけてきて、左右から夢中で突き刺すのでありました。佐野は駕籠の戸をむしりあけ、
奸物かんぶつ!』
 と掃部頭かもんのかみの襟首を掴んで、ずるずると雪の中に引きずり出します。
 びんのあたりから怖ろしいように血がたくさん流れていて虫の息でありましたがそれでも起き上がろうとして、手をついて、かしらを上げようとするところを有村が備前兼光びぜんかねみつの銘刀を振りかぶりさっと打ち下ろしたが、焦っているので駕籠の屋根に切先がつかえ直弼の首は落ちません。やっと引き刀で挽ききるようにして首を落としました。
 有村はそれを刀の切先に刺し貫いて
『薩摩の浪士、有村次左衛門ありむらじざえもん兼清かねきよ、国賊井伊掃部頭の首を打ちとった!』
 と大音声だいおんじょうに叫びあげます。
『直弼を仕止めた!』
 の声は、高く呼び交わされました。十八人の志士等はおどり上がって喜び、壕ばたを四方に駆け出します。
 しかし井伊方いいがたにも、勇士はありました。
 小河原秀之丞おがわらひでのじょうという男は、首をささげてゆく有村次左衛門・鯉淵要人こいふちかなめ廣岡子之次郎ひろおかねのじろうの姿を見て雪の上にたおれていた重傷の身を起し、現在の拓務省たくむしょうの前あたりまで追いかけて行って、後ろから有村の後頭部をしたたかに斬りつけました。不意を討たれた有村は、どっと雪の中にたおれます。
 廣岡子之次郎が振り返って抜き合わせ、たちまち小河原はそこに倒れされました。
『残念だ! 誰かもう二三人俺に続いてくれたら殿の首は取り返したのに……』
 小河原は自宅に引き取られ、虫の息の中でこう言って口惜しがっていました。
 有村は再び立ち上がって、廣岡とともに辰の口の遠藤但馬守の邸前まで来ましたが、二人共出血多量のために眩暈がしてもう歩けません。そこで有村は雪をかきならして井伊の頭をそこに据え、その上に左の足をのせ諸肌をおし脱ぎ、見事に立腹たちばらを切って倒れました。廣岡も一緒に死にました。
 有村・廣岡と別れた鯉淵は、山口辰之助たつのすけと一緒になり八重洲河岸がしまで走りましたが、これも二人とも出血多量でとても落ち延びきれません。捕吏ほりの手にかかって生き恥をかこうよりはと二人は相談を決めて雪の大地にどっかと座り、
『愉快愉快!』
 を連呼しながら、腹をかき切って壮烈な最後を遂げました。
 本懐を遂げた志士十八人のうち稲田重蔵は斬死し、有村・廣岡・鯉淵・山口は自刃をしました。大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎すぎやまやいちろう森山繁之助もりやましげのすけの四人は細川家へ、齋藤監物・佐野竹之助・蓮田市五郎はすだいちごろう・黒澤忠三郎の四人は神田橋で帯を締め直して脇坂わきざか家へ自首しました。このなかの佐野は間もなく絶命しております。の五人、すなわち関鐵之介・海後嵯璣之助・廣木松之助ひろきまつのすけ増子金八郎ますこきんはちろう岡部三十郎おかべさんじゅうろう現場げんじょうからどこともなく行方をくらましてしまいました。
 一方、事件の総帥ともいうべき金子孫二郎と高橋多一郎とはその後どうしたかというに、金子は予定の計画通り井伊をうちとめた事実を確かめた後、薩藩士の有村雄介とともに勇躍して東海道を西走せいそうしました。しかし四日市で薩藩の捕吏の手に挙げられ、伏見の薩邸さっていに護送されるにいたりました。
 しかも伏見に着いてみれば、共に義兵を挙げるべき約束の薩摩の有志は一人も出てきていないのです。その失望と痛憤の情は察するに余りあります。かくて遂に金子は幕吏の手に渡されて、後に斬首に処されて終わりました。
 高橋多一郎は水戸を脱走してから中山道なかせんどうを経て大阪に現れ、大いに計るところがありましたが、同じく事こころざしと違い、捕吏に家を囲まれ自若として屠腹とふくしました。
 江戸で自首した面々はみな文久ぶんきゅう元年七月に処刑され、現場げんじょうを落ち延びた同志も次々に探し出されて処刑され、遂に義徒ぎとはほとんど全滅したのであります。ただ増子金八郎と海後嵯璣之助だけは生き残って天寿を全うしました。
 他方、雪中せっちゅうに捨てられた直弼の首は遠藤但馬守のやしきで拾っておいたところ、程経ほどへて井伊家から受け取りに来ました。けれどもこれを井伊直弼の首だから渡してくれとは言われません。これを言ったら井伊家は幕府の掟に従ってたちまち改易かいえきになるのです。それを知っていますから遠藤家でも誰の首だかはっきりしない中は渡さぬと言う。やっと足軽片桐某かたぎりぼうの首だといつわり、
『首一個、正に受け取り候也。』
 という、請取うけとりの一札までいれてようやく渡してもらって帰ります。
 しかし井伊家では事実が世間に知れない筈はない。すれば家名断絶は免れぬ、それならいっそ水戸と決戦をして水戸家も抱き込んでゆかなくては殿様に対して申訳もうしわけがないというので、大っぴらに襲撃の準備をはじめました。対抗上、水戸家でも防戦の支度を急ぎます。
 もし両家が正面衝突でも起したら、勢いの赴く所、幕府の命取りになると見た老中ろうちゅう安藤信正あんどうのぶまさは、あくまで直弼を負傷のことにして病気見舞いを送りなどし、その直憲なおのり嗣子ししにたてさせて彦根三十五万石を無事に安堵させました。
 これでどうやら台風一過の形でありますが、実はどうしてどうして、いわゆる本年最初の台風という奴でほんの小手調べにすぎません。これよりいよいよ台風期に入って二百十もあれば、二百二十もあります。村上佛山むらかみぶつざんんだ通り、むしろ『天下の多事、これちょうし』たものでありました。


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