維新戦争物語/菊池寛
※今後朗読予定のため、私が読みやすいように仮名や読点、漢字等変更しております。原本をお楽しみになりたい方は上記の国会図書館デジタルコレクションのリンク先を御覧ください。
※振り仮名については基本的に原文のままですが新仮名に変えている箇所があります。
※旧字と新字が入り混じってます。
1 桜田門外の変
1
『落花、紛々、雪、紛々。
雪を踏み、花を蹴って、伏兵起る。
白昼、斬り取る大臣の頭。
噫嘻、時事知るべきのみ。
落花、紛々、雪、紛々。
或は恐る、天下の多事、此に兆すを。』(村上拂山)
萬延元年、三月三日、桜田門外の変は、維新史の上に、大きくは日本歴史の上に、一つのはっきりとした区切りをつけた、重大な事件であります。
今までは、世の中が騒がしくなったの、将軍の威望がおとろえたのといっても、幕府というものが枢軸となって、時世が遷り変わってゆきました。幕府の組織が不合理なものとなり、幕府の伝統的な政策が、時代に適しないものとなったので、この枢軸に改革を加えろという世論が、騒がしかったにすぎないのであります。
ところが、桜田の変によって、いわばこの枢軸ががたりと外れてしまって、幕府は、枢軸としての機能を、失ってしまったのです。さればといって、時世は、朝廷を中心にして、薩・長・土・肥・越・會などの一団が、幕府にかわって、時世の枢軸となったのであります。
そうなると、幕府などというものは無用の長物です。当然、崩壊への第一歩を、確実に踏み出したのであります。維新史が、裏から見れば幕府没落史である以上、幕府没落の第一歩である桜田事変は、また維新史の第一ページであるといわなければなりません。
2
桜田事変の原因は、尋ねれば遠いことであります。
水戸の光圀が『大日本史』をあらわし、『忠臣楠子之墓』をたてて大義名分を正し、尊王尽忠の思想を鼓吹した時に、既にその種が蒔かれていたのでありました。志を王事と国事にかける光圀は、大奥の勢力が幕政にまで及ぶのを苦々しく思い、一位様と崇められて、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった綱吉将軍の生母の桂昌院を無遠慮に凌辱して圧迫を加えて以来、水戸家は大奥の勢力をおさえるということを家憲の一つのようにしてきました。義公光圀と併び稱される忠義高邁な烈公齊昭も、もちろん、大奥の機嫌とりなどをする道理がありませんから、将軍家と水戸家とは一門でありながら、幕末に及んではほとんど敵味方といってもよいほどの、すれすれな間柄になっておりました。
その中に、北からオロシヤが来る。南からイギリスが来る。フランスだ、プロシヤだ、アメリカだと、得体のしれない夷狄禽獣が日本の沿岸をうろつきはじめる時代になると、水戸の徳川齊昭が真っ先にたって攘夷を高唱します。幕府もはじめはそれに引きずられて、無二念撃攘令などを沿岸諸国に発しましたが、嘉永六年六月、艦隊を率いて浦賀に来たアメリカのペルリに空砲などを打ち鳴らして強談判をされると、いっぺんに慄えあがって軟化してしまい、翌七年三月には手もなく、和親条約を結んでいる始末であります。
幕府の条約締結は、間もなく勅允を得た上に『千萬御苦労の儀』という、御犒いの御沙汰まで頂戴したのでありますが、おさまらないのは水戸齊昭を首領とする攘夷論者でした。烈公麾下の藤田東湖・戸田逢軒・會澤安等を第一線に、猛烈な論陣をはって幕府の弱腰を非難します。霊骨ある諸国の少壮志士が靡然としてこれに雷同したことは言うまでも在りません。
しかし、一旦、アメリカとの和親条約で、竹の第一の節を割ってしまった幕府は、爾来破竹の勢いで各国と和親条約を結び、つづいて各国と正式の通商条約を結ぶまでは、なんと非難されようと中途で止めるわけにはゆかなくなってしまいました。安政三年七月にアメリカ総領事のハリスが下田に来、梃でも動かぬ気勢で幕府に通商条約の締結を迫ります。
ハリスの下田駐在をもって夷狄の国土侵略の第一歩であるとする攘夷論者は、慷慨淋漓として即時撃ち掃いたいといきりたつ。気早の水戸藩士、信田仁十郎等は、ハリス暗殺を企て、事あらわれて刑せられました。大諸侯の肥前の鍋島閑叟までが、
『宜しく米使を征伐して嘉永以来の恥辱を雪ぐべし。』
という意見を幕府に上申してきます。長州の高杉晋作なども痛烈な攘夷論を叫びます。
天下の形勢かくの如き時代に、攘夷論の本家本元の水戸があっけらかんとしている道理がありません。徳川齊昭は方面を変えて、朝廷に開国通商を許し給わるように嘆願し、満廷の朝臣に尊皇攘夷の思想を吹き込んでいたのであります。こうして、幕府と水戸家とは和解し難い対立の立場に分離してゆくのでありました。
幕府はハリスに急き立てられて、安政四年の暮に、ともかくも通商条約の草案をつくりましたが、さすがに一存をもって調印するほどの勇気がありません。閣老堀田正睦は、勅許という鶴の一声を得て囂囂たる攘夷論を鎮めようと考え、安政五年二月に上洛、あらゆる手段をもちいて勅許を請い受けるために運動します。そして、それは撒き散らした黄白の力も加わって、一時は成功疑いなしというところまで廟議を導いてまいりました。
しかるに、この形勢に悲憤した侍従岩倉具視・大原重徳等は、三月九日の夜、徹宵猛運動を続けて勅許反対の同志八十八人を獲得し、多数の力をもって形勢を一夜に逆転させてしまいました。その結果朝廷からは勅許とは打って変わって、
『仮条約の文面では国威たちがたく考えられる故、幕府においてもなおよく三家・諸大名と相談の上、改めて伺いをたてるが宜しかろう。』
という意味の御沙汰書が堀田正睦に下されます。正睦は今更のように驚いて再び公卿の間に奔走してみましたが、もはや誰一人相手になってくれる者も在りません。泣くにも泣けない気持で呆然として江戸に帰ってきますと、江戸の形勢もまた留守の間に一変してしまっていました。即ち井伊直弼が大老となって、臺閣の上席に座っているというのであります、
3
井伊直弼は、徳川家康の四天王の一、井伊直政の裔の彦根左中将直中の十四男として生れ、幼名を鐵三郎と言いました。十七歳で父をうしない、一つ二つ養子の口もありましたが、どういうわけかみな破談になり、俗界をあきらめて大通寺の住職になろうとすると、これさえもうまく行きません。碌々として、長兄の直亮から三百苞の捨扶持をもらって、その青春時代を三の丸壕端の陋居に埋め、腐り切って自ら『埋木舎』を號しておりました。
年而立(十五)におよんでも立てもせず、まったく花咲く春もなくて終わるかと思われましたが、待てば海路の日和の譬えで、三十三歳の年に、藩主直亮の一粒種が病死したについて幸か不幸か養子の口もなく、彦根で腐っていた直弼が一躍して三十五万石の世子に挙げられました。
一つ運が向き出すと、物事はとんとん拍子に運ぶもので、直弼三十六歳の嘉永三年に封を襲って掃部頭と稱します。幕閣に入って溜の間詰となると、埋木舎時代の苦労と鍛錬とが物をいい、温室育ちの大名たちの間でたちまち穎脱し、柳営中に嶄然たる存在となりました。
当時、幕府の頭痛の種は外交問題もさることながら、もっと差し迫った重大事は将軍世継ぎの問題でありました。十三代将軍家定は病弱にして子がなく、物の用に足りないばかりでなく、あって返ってじゃまになる昼行灯でしたから、方今国事他端のおりから将軍に代わって政務をとりしきってゆける世子を立てることが、絶対に必要でありました。
そこで、第一に候補者にあげられたのは一橋慶喜であります。これは徳川齊昭の第七子で当年二十二歳、水戸家から出て一橋家を継いでおり、その人物識見についてはすでに定評があります。これを実父の齊昭、実兄の慶篤は論外として、越前の松平慶永・その家臣橋本左内・薩摩の島津齊彬、その家臣西郷隆盛・尾張の徳川慶恕以下、多数にして優勢な、いわゆる一橋派が躍起となって推薦いたします。
けれども、肝腎の将軍家定はこれを喜びません。というのは、前にいったような事情で、大奥が絶対的な水戸嫌いなために、いわば大奥辨慶の家定は、一も二もなく大奥の意向に支配されていたのであります。
この間に乗じて策をめぐらしたのが平岡道弘で、紀伊家の目付家老の水野忠央と示し合わせ、当年十三歳の紀伊家の徳川慶福を擁立すべく、着々として紀伊派ブロックを形勢いたします。一橋派が表なら紀伊派は裏で、その顔触れはいかにも堂々としませんが、それだけに侮りがたい根強さをもつようになりました。いよいよ、これを表面化する段になったが、さて、表面に立つ人物がおりません。老中の松平忠優ぐらいでは、水戸の老公や越前の春嶽公あたりに一喝されると全然二の句がつげないのです。
一橋派は巨塔連とまともに折衝をして顔負けしない人物は誰だということになっての見るところ、十指の指さすころで推したてられたのがこの井伊直弼でありました。すなわち、一橋派をたたきつぶして慶福を擁立しようという紀州派は直弼を一足飛びに大老に任じて、一種のクーデターを断行させようと策謀したのであります。
直弼にとって将軍に代わって政務を独裁する大老の地位は魅力でなかった筈はありません。奇跡的に開けてゆく自分の運命に対して異常な自信をもつにいたった点も多分にあるでしょう。直弼は大老の地位をもって紀州派に買われ、当然起るだろうところの反対を押し切って慶福を将軍世子に擁立するために安政四年四月二十三日、正式に大老職についたのであります。
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井伊直弼が大老の職についたのは、条約調印の勅許を請い受けに行った堀田正睦が岩倉具視《いわくらともはる》等の妨害にあい、勅許はいただけない代わりに将軍世子の問題について、
『年長賢明の人を選ぶべし。』
という、つまり慶福ではなく慶喜を選べという、内勅をたまわって帰ってきてから四日目のことでありました。
幕府にとっては一刻も猶豫はなりません。堀田が閣老上席にあれば、内勅に従って慶喜を世子に立てねばならないのです。そこで有無なく直弼を大老に押しあげ、どさくさまぎれに内勅は聞かざるふりをして電光石火に事を運ばせてしまうというのであります。すなわち直弼は窮鼠となった幕府の猫を噛む選手として急に全面に押し出されてきたものであります。
果せるかな、直弼は諸事をどしどし処理しはじめました。
まず、安政五年六月十九日に幕府擅断をもって日米通商条約を正式に調印締結いたします。ついで二十五日に早くも立儲式をあげて、紀伊宰相慶福を将軍世子として西丸に迎え入れます。
かくと知った烈公春嶽公などは黒煙をあげて憤激し、
『速かに京都にのぼり、朝廷に謝罪しろ!』
と、畳をたたいて詰め寄りましたが、かねて覚悟の直弼は恐れいりません。
『なにをっ、糞!』
とばかりに、七月四日に将軍家定が薨ずると、翌五日に『将軍家の御遺言』と稱して
一、尾張中納言(徳川慶勝)、御隠居を仰せつけらる。
一、水戸中納言(徳川齊昭)、駒込お屋敷へ、屹度御謹慎あるべき旨仰せ出さる。
一、越前中将(松平慶永)、同様、謹慎の旨仰せ出さる。
一、一橋慶喜、水戸慶篤は登城停め、その老臣は差控あるべき旨仰せ出さる。
という、霹靂の沙汰書を発し、今まで一橋派と目されていたものをば仮借なく処罰して、ことごとく幕府政局から締め出してしまったのであります。三家筆頭、天下副将軍の水戸齊昭に謹慎の罰を課するなど、こんなことが一体可能であったのかと、目を瞠らせるに十分な弾圧です。
ついで来るものは当然京都方面の手入でなければなりません。対外強硬論をとなえて朝廷の力をかりて幕府に盾突き、また幕府に無理難題を吹っかけて苦しめようとする公卿・諸侯・志士・浪士一切に対する秋霜烈日の処分であります。世に謂う『安政の大獄』は、こうして起されました。
井伊直弼は其の目的をもって老中間部詮勝、家臣長野主膳を上京させ、所司代の酒井忠義や町奉行の岡部土佐守と協力して一網打尽に京洛の尊王攘夷派を逮捕させます。この安政の大獄で処罰されたものは、事情は一々ちがいますが、大体次の通りであります。
鷹司太閤政通――辞官落飾
鷹司右大臣輔凞――辞官落飾
近衛左大臣忠熈――辞官落飾
三條前内大臣實萬――辞官落飾
一條内大臣忠香――遠慮引籠
二條大納言齊敬――遠慮引籠
近衛大納言忠房――遠慮引籠
久我右大将建通――慎み引籠
水戸前中納言齊昭――永蟄居
一橋刑部卿慶喜――隠居慎み
尾張中納言慶恕――隠居慎み
水戸中納言慶篤――差控
松平越前守慶永――隠居慎み
松平土佐守豊信――隠居慎み
伊達遠江守宗城――隠居慎み
安島帯刀(水戸家家老)――切腹
茅根伊豫之助(水戸藩士)――死罪
鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守役)――死罪
鮎澤伊太夫(水戸藩士)――死罪
鵜飼幸吉(吉左衛門倅)――獄門
小林民部権大輔(鷹司家家来)――遠島
池内大學(儒医)――中追放
津崎村岡(近衛家老女)――押込
橋本左内(松平越前守家来)――死罪
吉田寅次郎(浪人)――死罪
頼三樹三郎(儒者)――死罪
飯泉喜内(曽我権太夫家来)――死罪
日下部裕之進(伊三次倅)――遠島
六物空萬(大覚寺門跡家来)――遠島
吉見長左衛門(伊達遠江守家来)――重追放
丹羽豊前守(三條家家来)――中追放
三國大學(鷹司家家来)――中追放
森寺若狭守(三條家家来)――中追放
伊丹蔵人(春連院宮家来)――中追放
藤森恭助(古賀謹一郎家来)――中追放
世古恪太郎(伊勢松坂町人)――江戸拂
以上は比較的有名で重科を課せられた人々だけを挙げたもので、全部の処罰者はこの三倍以上にのぼります。また、処罰された幕府役人はこの中には入っておりません。
頼三樹三郎・池内大學とともに『悪謀四天王』と睨まれて、真っ先に逮捕された梅田雲濱は獄中で病歿し、梁川星巌は検挙の直前に幸か不幸か中毒で死んでおります。また、小林良典や六物空萬などは遠島とはいっても、結局生死不明、行方不明になってしまっています。松陰吉田寅次郎などは当時郷里萩の獄裡の人で、検挙するさえ不当なくらいなのに、直弼は自ら筆をとって罪名を『死罪』と書き、ついに斬ってしまいました。
総じて安政の大獄は罪のための罰ではなく、幕府の都合と直弼の感情とによる罰のための罰でありましたから、それに対する反感もまた異常の激しさで燃え上がったに不思議はありません。
5
水戸派に戦慄すべき大弾圧を加えたことによって、齊昭を目の敵にしている井伊にすれば少しは胸がすうっとしたかも知れませんが、これで安心というところまではゆきません。
それは、幕府にとって一番始末の悪い倒幕の密勅を水戸藩が握っていてはなさぬことと、天狗といわれた水戸藩の硬派が齊昭を遠く取り囲んで、幕府に対して何等かの反発を示そうとしていることであります。この反対気勢に対しても、井伊はあくまで高圧的であり、挑戦的でありました。
密勅については、井伊は京都の酒井忠義に命じて、朝廷から勅書返納の沙汰書を仰ぐよう、百方手をつくして尽力させ、その年の十二月十日、やっとそれを手に入れることに成功しました。
『昨年八月八日、水戸中納言へ下し置かれし勅諚の書付並に添書共、このたび返上これあり候よう仰せ出され候間、その段水戸中納言へ達せらるべく候。仍てこの段申込候事。』
というのであります。
このことが早くも水戸藩士の耳に入りまして、硬派は幕府の強要による御沙汰は真の朝命でないと息巻き、ために一藩が騒然たるありさまでございました。
大体、この密勅は彼らが安政の大獄という大きな犠牲を払って得た、最後の切り札であります。それによって現実に尊皇攘夷の大運動を巻き起こすことはできませんでしたが、少なくともこの一書を持っておれば大義名分は水戸藩にあるのです。之を簡単に井伊に巻き上げられたのでは、今までの水戸藩の苦心なり犠牲なりは水の泡となって立つ瀬がないのですから、激越派は勿論のこと、穏便派の者さえ密勅を幕府に返納することについては強硬に反対したものであります。
勅書はその当時幕府の返納強要に対抗するために水戸城中の祖廟に収めてあったのですが、慶篤の側用人、横山甚左衛門が都合があるからといってこれを江戸の藩邸に奉持しようといたしました。これを聞いた激越派の一団は極度に憤慨して決起し、水戸城外二里の長岡にたむろして、
『今もし、密勅を江戸に移してしまったならば、水戸累世の大義は失われるのである。よろしく国境に待ち受けてこれを奪還すべきである。』
と叫び、大道の真中に『大日本至誠至忠楠公之標』と大書した木柱をたてて、横山の一行を威嚇する騒ぎまでありました。
こうした険悪な空気の中に大獄で有名な安政六年はくれ去って、桜田事変に記憶されるべき萬延元年を迎えたのであります。
年が変わるとともに直弼の態度はいよいよ強硬で、安藤信睦を小石川の水戸邸につかわして、勅書返納を催促し、もし従わなければ違勅であると威嚇し、違勅は同時に水戸家の滅亡を意味するぞとまで極言せしめたのであります。
これが慶篤や穏和派を動かして、とにかく密勅を江戸に持ってこようということになり、それを渡すまいとして激越派の長岡屯集となったのでありました。
蟄居中の齊昭まで、騒ぎがあまりに大きくなったので、
『その衷情は察するが、一藩の運命には代えがたい。』
といって、手書を長岡勢に下して自重を促しましたが、勢いの激するところ今となっては老公の御沙汰といえども一向に徹底しないのであります。
ついに意を決した藩当局は長岡に向けて鎮圧の諸隊を繰り出すとともに、彼等の黒幕と目されていた激越派の領袖、高橋多一郎、関鉄之介等を評定所に召喚しようとしました。
しかし、このときすでに彼等は何事かを期するもののごとく、水戸を脱走してしまっていたのであります。
6
『奸賊井伊を屠らねばならぬ!』
これは単に水戸藩だけの声ではなかった。薩摩の西郷吉之助・有馬新七等も早くから水戸の有志と連絡を取って決行の時期をうかがっていたのであります。
はじめはむしろ薩藩の方が急進的で、水戸藩は尚早論をとって自重していたのでしたが、勅諚返納にからまる井伊の高圧的態度は急に水戸藩の硬派をして決然、挙義斬奸の決心をかためさせたのであります。
その謀主は高橋多一郎・金子孫二郎の二人で、先ず有志五十人を糾合してこれを二手に分け、一手は大老をたおし、一手は横浜を焼き払う。同時に薩藩有志を上京させて京都を守護し、東西相呼応して攘夷を決行しようというのでありました。
決起の時期ははじめ二月二十八日と決めていたのであります。
高橋多一郎、名は愛諸、柚門と號します。藤田東湖に愛されて、
『柚門・才気俊敏、気力強捍、常に人事を以て、天を制せむ。恐らくは畳上に死するを得ざらむ。』
と評された。
金子孫二郎は水戸藩の郡奉行で治蹟のあったことで有名な人物です。
二月十八日、彼等はいずれも水戸をひそかに脱出して、それぞれの目的地に急ぎました。予定に従って高橋多一郎は上方に赴いて薩藩義兵の上洛を待つこととし、金子孫二郎は江戸において井伊要撃の総指揮者として働くことになっていたのであります。
それと同時に、長岡にあって気勢をあげていた連中も一先ず解散して、おのおのその進退を決めることになりました。
水戸から江戸にいたる街道筋の警戒は想像以上に厳重を極め、そのために江戸出府の人数も整わず、二月二十八日決行の予定が延期のやむなきに至ったのであります。
三月一日、総帥金子孫二郎はいよいよ事を決するため、同志を日本橋西河岸の山崎楼に集めました。山崎楼は往年、西郷と水戸藩の有志との秘密の会見場として馴染みの家であります。
金子孫二郎の従臣、佐藤鐵三郎の筆録によりますと、
『ここにおいて議はじめて決す。明後三日もって挙行の日と定む。三日は上巳の嘉節により大老必ず登城せんと予定すればなり。場所は桜田門外と定む。』
更に三月二日、決行の日を前にして一同は訣別の宴を品川の妓楼土蔵相模にひらきました。出府以来、はじめて顔を合わすものが多いので、
『よう。』
『やあ。』
といった挨拶からはじまり、夜の更けるとともにようやく酒がまわってきて、三十畳の大広間は飲めや歌えやの大騒ぎでありました。
7
明くれば萬延元年三月三日!
ほのぼのと白みかけた空からは鵞毛のような雪が霏々として降り出しました。
海後嵯璣之助の語るところによりますと、
『それより朝食をおわりて、おのおの立ちいでんとする折しも、凍雲天をとざし、飛雪紛々として降りいだしたり。関鐵之介、あおいで喜色をおび、ああ、この吉兆をくだす天我が忠義を祐くるなりと独語す。』
かくて彼等は三々五々、集合予定地である愛宕山に向かって急いだのでありました。
愛宕山には薩藩から有村次左衛門が来ていました。水戸側の事態が急迫したために無理に事を急いだのと、薩摩の藩論がかわり島津久光から諸士の自重を求めた教書が出たり、また在府の人数が至って少なかった関係上、薩州側からは一二人の参加を見たに過ぎませんでした。これで総勢十八名。
総帥金子孫二郎は、事件の終始を見届けて直ちに上洛して第二段の運動に取り掛かるため、予め定められた通り薩の有村雄介とともに品川の旗亭にのこって消息を待っております。
十八人の同志は、愛宕山上の絵馬堂の中に雪を避けて部署の相談をまとめました。左翼右翼、それに行列の前をつく遊軍、斥候に予備隊。総指揮は関鐵之介、総代として蹶起趣意書を老中に持参するのが齋藤監物と決まります。
それから一行は目立たぬように前後して愛宕山の通りから新橋へ出て、左へ曲がって桜田門に向かいました。
雪はしだいに降りつのって、おまけに横合いからの風が加わり傘もさしがたい位でありました。やがて桜田門外に着きます。
桜田門外には、よしず張の茶店がありました。同志の人々は二三人ずつみんな通りがかりの態で田舎侍の江戸見物となりすまし、思い思いに茶や燗酒で寒さをしのぎながらお濠の鴨を見たり、武鑑を取出していくつも通る大名行列を見送っています。
いずれも緊張しきった眼をして、井伊家の正門(今の参謀本部)から行列の現れてくるのを息を殺して待っているのです。
その中にも時刻は移り、千代田の城の太鼓櫓で五つ(午前八時)の太鼓を打つ音が吹雪にこもって鳴り響きました。
『登城触れだ。いよいよ来るぞっ!』
一同、思わず武者震いをして瞳を凝らすと、果たして、井伊家の大門が、ぎ……と八文字に開きます。
一列の赤合羽が、粛々と雪の中から盛り上がってくるように濠端に沿って近付いて来ました。
一本道具を先に立て、吹雪に吹きなぐられながら五六十人の傘と駕籠が規則正しく刻み足で『下に下に。』の唱道の声いかめしく、雪にわらじをはます音がぎすぎすと響いてきます。
年少で気の早い佐野竹之助は早くも羽織の紐をといて、ばらりと後ろにはねかけます。大関和七郎が横目でこれを見て、ぐいと袖を引き
『まだまだっ!……落ち着けっ!』
と小声で叱りました。
傘をさしている者もあり、菅笠をかぶっている者もいます。うずくまっている者もあり、堀の方を向いてさりげなく立っている者もいます。みな合図を待って、じっとこらえていますが、その眼はいずれも次第に火のように燃えてゆきます。
行列の先頭が大隅守邸前の大下水(萬年樋)の辺りに差し掛かりました。駕籠は、ばらりと配置した同志の真中に囲まれる位置まで来ました。
今だ! 時期は熟して、正に絶好!
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『捧げます。』
と叫びながら何か直訴でもするような格好をした一人の町人風の男が、辻番小屋の後ろから駕籠をめがけて走り寄りました。
井伊家の供頭日下部三郎右衛門と、共目付の澤村軍六とがきっと立ちふさがって、
『何者じゃ。差越の願は相成らんぞ!』
と刀へ手をやったが、羅紗覆で柄をくるんであるので咄嗟には抜けません。大雪のために湿気が刀身に通るのを防ぐ為、柄袋をはめてあったので急場の役には立たないのです。慌てて鞘もろとも抜こうとしたが、このとき、早く町人の傘はびゅうと宙に飛び、ぱっと合羽をはねれば白鉢巻、襷十文字の凛々しい森五六郎、腰の一刀
『えいっ!』
と日下部の真額へ斬りつける。返す刀で澤村を大袈裟がけに斬り下げました。
『すど………………ん!』
この瞬間、いづこともなく一発のピストルが放たれました。それを放ったのは関鐵之介ともいうし、黒澤忠三郎だともいいますが誰にせよ『全員かかれ!』の号砲には違いありません。
この銃声を合図に十八人の烈士は一斉に被物、履物を脱ぎ、抜きつれて左から右から井伊家の行列目掛けて斬り込んでゆきました。
激しい刃の音が氷の割れるように耳を打つ!
血しぶきが火花のように雪の上に散る!
雪はいよいよ本降りとなって、ほとんど五六尺の先もぼんやりとしか見えません。敵味方入り混じって、ほとんど白烟模糊の中に切り結んだのであります。
『正っ!』
『堂っ!』
これが烈士の同士打ちを防ぐための合言葉であり、同時に烈しい気合の掛け声でもあります。
不意の襲撃で井伊の駕籠側は乱れ、駕籠を守る人数は極めて少数でした。駕籠かきどもはいつの間にか姿をくらませ、駕籠は地に据えられたままで扉も開けられません。気配を知って直弼は駕籠の中から
『駕籠脇を離れるな離れるな!』
としきりに叫んでおります。
それと見て、先ず全身でぶっつかって行ったのは稲田重蔵です。ただ一人踏みとどまって直弼の駕籠を守る、彦根第一の武芸者と謳われた神免二刀流の師範役、河西忠左衛門と切り結んで、深手を負うてよろよろしながらも血だらけの大刀を双手に掴み、岩をも透れと駕籠の中を刺し貫きました。
『国賊!』
と、二度目に突いた時、ぐさっとした手応えが電気のように柄もとに感ぜられました。
その間に河西は有村次左衛門・佐野竹之助に囲まれて遂に斬死をしました。海後嵯璣之助は続いて駕籠に刃を入れる。
河西を仆した後に、左から有村次左衛門、右から佐野竹之介の二人が疾風のように駕籠脇に駆けつけてきて、左右から夢中で突き刺すのでありました。佐野は駕籠の戸をむしりあけ、
『奸物!』
と掃部頭の襟首を掴んで、ずるずると雪の中に引きずり出します。
鬢のあたりから怖ろしいように血がたくさん流れていて虫の息でありましたがそれでも起き上がろうとして、手をついて、頭を上げようとするところを有村が備前兼光の銘刀を振りかぶりさっと打ち下ろしたが、焦っているので駕籠の屋根に切先がつかえ直弼の首は落ちません。やっと引き刀で挽ききるようにして首を落としました。
有村はそれを刀の切先に刺し貫いて
『薩摩の浪士、有村次左衛門兼清、国賊井伊掃部頭の首を打ちとった!』
と大音声に叫びあげます。
『直弼を仕止めた!』
の声は、高く呼び交わされました。十八人の志士等はおどり上がって喜び、壕ばたを四方に駆け出します。
しかし井伊方にも、勇士はありました。
小河原秀之丞という男は、首をささげてゆく有村次左衛門・鯉淵要人・廣岡子之次郎の姿を見て雪の上にたおれていた重傷の身を起し、現在の拓務省の前あたりまで追いかけて行って、後ろから有村の後頭部をしたたかに斬りつけました。不意を討たれた有村は、どっと雪の中にたおれます。
廣岡子之次郎が振り返って抜き合わせ、忽ち小河原はそこに倒れされました。
『残念だ! 誰かもう二三人俺に続いてくれたら殿の首は取り返したのに……』
小河原は自宅に引き取られ、虫の息の中でこう言って口惜しがっていました。
有村は再び立ち上がって、廣岡とともに辰の口の遠藤但馬守の邸前まで来ましたが、二人共出血多量のために眩暈がしてもう歩けません。そこで有村は雪をかきならして井伊の頭をそこに据え、その上に左の足をのせ諸肌をおし脱ぎ、見事に立腹を切って倒れました。廣岡も一緒に死にました。
有村・廣岡と別れた鯉淵は、山口辰之助と一緒になり八重洲河岸まで走りましたが、これも二人とも出血多量でとても落ち延びきれません。捕吏の手にかかって生き恥をかこうよりはと二人は相談を決めて雪の大地にどっかと座り、
『愉快愉快!』
を連呼しながら、腹をかき切って壮烈な最後を遂げました。
本懐を遂げた志士十八人の中稲田重蔵は斬死し、有村・廣岡・鯉淵・山口は自刃をしました。大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之助の四人は細川家へ、齋藤監物・佐野竹之助・蓮田市五郎・黒澤忠三郎の四人は神田橋で帯を締め直して脇坂家へ自首しました。この中の佐野は間もなく絶命しております。他の五人、すなわち関鐵之介・海後嵯璣之助・廣木松之助・増子金八郎・岡部三十郎は現場からどこともなく行方をくらましてしまいました。
一方、事件の総帥ともいうべき金子孫二郎と高橋多一郎とはその後どうしたかというに、金子は予定の計画通り井伊をうちとめた事実を確かめた後、薩藩士の有村雄介とともに勇躍して東海道を西走しました。しかし四日市で薩藩の捕吏の手に挙げられ、伏見の薩邸に護送されるにいたりました。
しかも伏見に着いてみれば、共に義兵を挙げるべき約束の薩摩の有志は一人も出てきていないのです。その失望と痛憤の情は察するに余りあります。かくて遂に金子は幕吏の手に渡されて、後に斬首に処されて終わりました。
高橋多一郎は水戸を脱走してから中山道を経て大阪に現れ、大いに計るところがありましたが、同じく事志と違い、捕吏に家を囲まれ自若として屠腹しました。
江戸で自首した面々はみな文久元年七月に処刑され、現場を落ち延びた同志も次々に探し出されて処刑され、遂に義徒はほとんど全滅したのであります。ただ増子金八郎と海後嵯璣之助だけは生き残って天寿を全うしました。
他方、雪中に捨てられた直弼の首は遠藤但馬守の邸で拾っておいたところ、程経て井伊家から受け取りに来ました。けれどもこれを井伊直弼の首だから渡してくれとは言われません。これを言ったら井伊家は幕府の掟に従ってたちまち改易になるのです。それを知っていますから遠藤家でも誰の首だかはっきりしない中は渡さぬと言う。やっと足軽片桐某の首だと佯り、
『首一個、正に受け取り候也。』
という、請取の一札までいれてようやく渡してもらって帰ります。
しかし井伊家では事実が世間に知れない筈はない。すれば家名断絶は免れぬ、それならいっそ水戸と決戦をして水戸家も抱き込んでゆかなくては殿様に対して申訳がないというので、大っぴらに襲撃の準備をはじめました。対抗上、水戸家でも防戦の支度を急ぎます。
もし両家が正面衝突でも起したら、勢いの赴く所、幕府の命取りになると見た老中安藤信正は、あくまで直弼を負傷のことにして病気見舞いを送りなどし、その間に直憲を嗣子にたてさせて彦根三十五万石を無事に安堵させました。
これでどうやら台風一過の形でありますが、実はどうしてどうして、いわゆる本年最初の台風という奴でほんの小手調べにすぎません。これよりいよいよ台風期に入って二百十日もあれば、二百二十日もあります。村上佛山の賦んだ通り、むしろ『天下の多事、此に兆し』たものでありました。
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