本物とか偽物とか



好きな漫画のセリフがある。

紙の世界を飛び抜けて、自分に突き刺さった言葉。

"世の中にはフェイクは所詮フェイクだって言う人が沢山いるけど、私みたいに偽物の輝きに本物の輝きを感じる人間もいるってこと 忘れないでね"

自分に言われてるのかと思った。
もちろんそんな事はないけど。サーセン。

漫画にも本にも、素敵な言葉がそりゃもう数え切れないくらい沢山ある。

でも今の自分に投影できる台詞って案外少なくて、大体その世界観に染まっている中で印象に残るとかそんな感じだ。

つまり今の自分とは結びついていない。

でもこの台詞は"私そのもの"に刺さった。




私自身は、私が偽物でできていると認識しているのだろうか?だから刺さったのだろうか。

そんなつもりはないけど、まぁそうかもしれない。どっち。


最近は自分ウケという言葉が流行っていたりと、とにかく周りの目を気にせず生きよう!みたいな風潮がある。

それは素晴らしい。でも結局のところ、自分ウケというのも他者の視点ありきである。

他人から良いと思われるかどうかの評価に惑わされなくても、他人の目にどう映る自分でいたいかは気にせざるを得ない。

私も自分ウケで生きているつもりだが、もし無人島に漂流したり地球に自分しか人類が存在しなくなったらメイクなんてしない。3日で原始人になる自信がある。

つまり「自分ウケ=他人の目に映る自分演出」である。

どんな自分として見られたいか。

どこまでいっても他者の視点なしでは生きられない生物である。

ここで先程の話に戻る。

私は私が偽物だとは思っていないが、他者の視点からみる私は偽物だと思われるだろう、と思っている。

思うが飽和している。

あくまで想像でしかないので仕方ない。だってそう思うから。

人って不思議なもので、自然である事にものすごく執着する。あるがまま、とか生まれた時からこうです、みたいな…

本物と偽物論もそうじゃないだろうか。

ブランドの偽物みたいに明らかに品質が落ちてる物を下に見るのは分かる。てか詐欺ですよね。

でも本物か偽物か判断できないモノの間にある差ってなんだろうか?

一緒じゃん。

え、なんか違う?

私の貧乏人気質がこう思わせるのだろうか。

別に言わなきゃ分からないなら、偽物であろうとなんであろうと同じ価値を持ってるって事にはならないのか?


あるがままの自分じゃなくても、例えそれが騙しているって事になるのだとしても、私が"そうでありたい理想"を演じているなら。

努力して頑張って身につけたことなのに、元々の輝きを持った人間にはどうしたって敵わない。

本物の人たちには。

抽象的すぎて一体何の話をしているのか要領を得ないだろう。それでいい。

noteとかいう自我の主張の塊を書いている癖に、あまり自分の内面やコンプレックスを晒したくない。

センシティブなのです。歩くセンシティブです。

世の中には本物に拘る人達がいて、てかその方が圧倒的多数で、でも「偽物の輝きに本物の輝きを感じる」人だっている。

それでいい。

偽物であろうと何であろうと何もないよりはマシなので。もうこれは人生の抱負にしたい。

自分の価値は自分でつくるしかない。


一生他人を羨むし、僻むし、卑屈になるけど、

それでも今が1番人生で生きやすい。




あ、ちなみに素敵な台詞は「九龍ジェネリックロマンス」から引用しました。読んでね。

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