自分の正しさは自分の中で

最近のとあるやり取りを見ていて思う

いや、正直には
気分が悪かった

本人は気づいていないのかもだが
人の感じた想いを真っ向から否定してる

寂しさも愛しさも共有しながら
今この時間を
愛しい人の事を語り合い過ごす
それを正か否か、なんて
人に判断されたくない

自身の正当性を証明したいのか
誠実だと思われたいのか
意見に賛同賞賛してもらいホッとし
承認欲求を満たすためなのか

どうあるのも自由だけど
だからって他の人が思った気持ちまで
間違いだと言うのは傲慢じゃないか
なんだか随分上から目線だけど
そんなに立派なのかな

自分が間違えた、失敗したと思うなら
そこだけ言えばいい
結局誰かの言葉のせいにするのは
誠実さのアピールかも
良くないと思った投稿をしたなら
そっと消せばいい
その方がよほど誠実じゃないかな
自覚があるなしにかかわらず
結局誠実さをアピールしたいという気持ちって
読む人にはすぐわかるものでは

確かに賛同や意見をもらったなら恐縮するかもだが
多分他人はそこまでこだわってもいない

自分の正しさは
人知れず持っておくのではだめなのか
苦悩や悲しさ怒りも然り

「正しい判断ができる自分」
は結局、誰の為なのか
その為に他人を貶すのは
結局自力でそれを証明できないからじゃないのか
いやそもそも証明なんか必要なのだろうか
一つ一つに正しさの承認印が要るのか

推し界隈では各々が推しの好きな部分はみな様々で日々口々に想いを語る
まぁ度合いは色々だし
違反や違法はもちろんダメだ

だけど
愛しく想う気持ちに正当性も何もない
個々の想いなんだから
それを見て辛いだとか疲れたとか言うのは
人のせいにしてる
それだって自分が思った気持ちなのだから
ただ、自分はそう思ったんだな、で
良いのではないか

合わないなら静かにそっと通り過ぎれば良いのでは
それをわざわざ
スルーしますと宣言する必要はあるのか

批判ばかりだと幸せにはなれないね
推し活も、人間関係も、人生も。

その時間を
素敵、好き、愛しい、
そんな考え方もあるんだ
とプラスに、素直にもっと単純に捉えた方が
結局幸せなんじゃないかな

だから今日も自分の時間を
愛しい人の愛しさを見つける事に使いたい。

能天気かな…?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?